端緒

私の理学療法士としての経歴の中で、大変思い出深い患者がいる。
患者と私には、このたびの主張の原点となったエピソードがある。
その方を、Aさんと呼ぶ事にする。
今から10年以上も前、理学療法士の私は、Aさんの自宅を毎週訪問していた。
目的は、訪問リハビリテーションという介護保険サービスを行う為である。
私が訪問を開始するおよそ1年前、Aさんは、突然自宅で重い脳梗塞の発作を
起こされて、救急病院に搬送された。
ICUで生死の境を彷徨い、数週間も意識が戻らなかったそうだ。治療の甲斐あってようやく意識が戻ったが、左半身に重い麻痺が残った。
自分で身体をほとんど動かせない全くの寝たきり状態であったが、早期から開始したリハビリテーション治療を受けて3か月、機能がわずかながら回復の兆しを見せ始めた。
Aさんはさらなる機能回復を図る為に、リハビリテーション専門病院に転院し、集中的なリハビリテーション・サービスを3か月受けた。そしてAさんはようやく退院し、自宅に戻られた。
ここから、Aさんの自宅に私が訪問する形で、Aさんと私のリハビリテーションの関わりが始まった。
実は、最初は私だけが訪問リハビリテーションの担当者ではなく、もう1人の担当者がいた。
週2回の訪問を私とその療法士で1回ずつ担当していた。
Aさんのリハビリテーションの目標は、自宅での生活をできるだけ自立できるようになる事だ。主な介護者である奥さんの意見を踏まえ、Aさんから発せられた希望は、
「トイレに自分で行けるようになりたい」だった。
リハビリテーションに関わる上で、”目標”の設定や”希望”の考慮は重要だ。
これに基づき、大方のリハビリテーションの方針が決まるからだ。
明確になったリハビリテーションの方針は、私達担当者間でも共有された。
この方針決定を受けて、まずもう一人の担当療法士が動いた。
彼はAさんに、トイレ動作の自立に向けた練習を集中的にする事を提案したのだ。
Aさんは「そんな事がすぐにできるのか?」と疑心暗鬼ながらも、その提案を受け入れた。
ちなみに、希望に向けてダイレクトにアプローチを進めていく、このリハビリテーションの取り組みは、至極まっとうな方針である。
彼はAさんに、迷いなくその王道的方針を提案したのだった。
一方、私の取り組みであるが、少し違っていた。
私は基本的に、当初から本人に過度の努力はさせない方針だ。
少しばかりの努力でできる事を、少しばかり努力させるようにもっていくのが、私のやり方なのだ。
Aさんがどの位“できる”かは、初見ですぐに分かる。専門家の見立てというべきか、大雑把ではあるが、分かるのである。
ただ、”努力してできる”範囲については、少し関わりを続けないと分からない。
人の努力の可能性は、そう簡単に推し量れるものではないと、私は思っているからだ。
私は最初の見立てで、トイレ動作の自立には、相当の努力が要ると思った。
もっと具体的に言うと、実現にはほど遠いと思えたのだ。そして、「Aさんには機能向上の為の、集中的な運動療法が必要だ」と強く思った。
効果発現が見込まれるプログラムを検討し、適宜修正・試行を重ねながら、集中的に行う運動療法で実際の効果を出すべく頑張るのは、Aさんではなく、理学療法士の私である。
Aさんに少しばかりの努力でトイレ動作が自立できるように、私の努力で、運動機能を向上させるというのが、私が支援するリハビリテーションの方針であった。
私はAさんに、「しばらくの間、運動機能が向上する効果がある運動療法を集中的に行います」と告げた。
訪問リハビリテーションを開始して間もなく、Aさんから、もう一人の担当療法士を変えて欲しいとの要望があった。Aさんからは、「やってはみたが、まだまだ怖くてできない。手すり設置などの提案を受けたが、今、そんな無理をしてまで、独りでトイレに行けなくても良い」と言われた。
Aさんに、何故、担当者の変更まで訴えるかを聞いてみた。
「ワシはリハビリが段々しんどくなってきた。別に独りでトイレに行けなくても良いかなって。でもあの先生はトイレの訓練しかせえへん。何でやろ。何でそこまで同じ事を押し進めてくるのか。他にする事ないんかって。やっと家に帰って来たのに、何かこの先生とは気持ちが通じてない気がして、辛くなってきたんや」
単なる方向性の間違いなら、修正すれば問題は解決するが、この療法士は方針を譲らなかったらしい。
この療法士の態度には少し同情できる。だって“トイレ動作自立”はAさんと奥さんにとって在宅生活を安定させる“王道的な方針”だから。
「すごく大事な事なのに、Aさんの努力が足りないのでは?」と考えたくなる。
しかし一方のAさんは、トイレ動作も大事だが、それ以上に“関係が辛いので担当を代えて欲しい”という事だったらしい。
さらに彼はこう続けた。
「最初は何をしたらよいか分からなかったが、リハビリテーションに取り組んでいる内に何が必要か少し分かってきた。それは、もっと機能が良くなるのなら、もっと良くしたいという事だ」
その意思表示をした時のAさんの表情は、それまでのモヤモヤが晴れたかの様に、穏やかで落ち着いていた。
私には、さらなる機能向上に可能性を見出して、これからを生きていく自信が芽生え始めたように見えた。
Aさんは今、大きな苦難を乗り越えて、自分の城(自宅=住処)に戻ってきた。自分の住処での生活はまだ始まったばかりだ。
病院ではいきなり訪れた人生最大の苦難に、辛い体験をされた事だろう。リハビリテーションの取り組みではそれなりに達成感も得られただろうが、やはり自宅での生活こそが全ての望みと、それを目指して頑張って来られたものと推察する。
彼にとって、これまでのリハビリテーションは、自宅に帰る為のものだった。と言える。
そして今、自宅でのリハビリテーションがようやく始まったのである。
自宅という環境下で、ゼロからのスタートが切られたのだ。
Aさんは、戸惑いながらも、あらゆる可能性を試したいと思っているはずだ。病院では思いもしなかった事もあるだろう。自宅ゆえに思いつく自由な発想がある。
そのような希望に満ちた発想を引き出す為に、私は運動療法による支援を頑張った。重い麻痺症状ゆえに、機能向上効果の発現は、順調にはいかなかった。
しかし私は、前向きな解釈を続けた。「今やっている事は決して無駄ではない」と。そして、どんな小さな変化でも、機能向上の芽生えには最大限の良い評価を送った。
自宅で再びできる事というのは、どんな小さな成果であっても、自宅での生活を望むAさんにとって、とても大きな意味を持つと思うからである。
それをAさんに気付かせる為にも、やや誇張気味に評価した。
そして、Aさんと奥さんに少しずつ喜びが生まれていった。
このように私は、運動療法の取り組みを通して、小さな“できる”喜びを数多く作り出して、Aさんに届けた。
ただ、それらは決して、希望するトイレ動作に客観的につながるものではなかった。しかし驚く事に、Aさんは私の知らない間にトイレ動作が自立していたのだ。
私の取り組んだ運動療法は、トイレ動作だけを意図して行ったわけではなかった。あらゆる自力動作の安定化に効果のある内容だった。
間接的に、トイレ動作の安定化にも貢献していたものと考えられた。
もう一つ意外だった事がある。
Aさんは、当初の希望であったはずのトイレ動作が自立したのに、大して喜んだ様子を見せなかった。私に対して特に、目標達成を申告する意思もなかったそうだ。
私はこう解釈した。
Aさんは、これまでの小さな“できた”体験を通して、在宅生活に自信を深めていった。介護をしている妻も、初期の重篤な時期からは想像もつかない程、夫ができる事を増やしていき、夫の頑張りを誇らしく、また、いとおしく思えていた。不安と苦労が募った介護の日々も少し報われると話していた。
夫婦は新たに絆を深めて、互いに逞しくなっていった。
そして、冒頭にも書いた、希望に満ちた素晴らしい一言をAさんが言ったのだ。
「ワシ、将来もうちょっと良くなるかな?」
何と、その時彼は92歳であったのだ。
「将来って何よ!おじいさん。いつまで生きる気やの?」
妻は思わず噴き出した。
言ったAさんもそれに気付き、笑った。「ほんまやなぁ」
その瞬間のAさんの胸中には、年齢の限界など、微塵もなかったのだろう。
傍らにいた私にはこう映った。
リハビリテーションという新しい帆を張って、止まりかけていたAさん夫婦の船は、「在宅での人生」という光る海原に、限界を厭わず再び進み始めたようであった。

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