肉体の生・存在の生①

「2つの死」があれば「2つの生」もある。

死には、生体の死と存在の死という2つの死があると言った。
私は、生きる事にもまた、生体の生と存在の生があると思う。

「死」とは必然であった。
全ての生物に死は訪れる。

「生」はどうだろうか?

生きている事とは、全くの偶然の産物である。
過去に生まれてきた事が偶然の始まりであり、現在進行形の生きている事も偶然である。
未来も生きているだろうか?
これは全くの白紙である。
「生」に未来はなく、必然の「死」までの間、現在進行形の偶然の「生」が積み重なっていくだけである。
このように文字に起こしてみれば、「生」とは何と儚いものだろうか。
「生」の最大価値は、今この瞬間であるという事が分かる。
生まれてから現在までの過去の「生」もまた、証しとしての価値がある。

私は、過去、そして今現在の「生」の価値を「存在」と言い換えたい。
生まれてから現在に至るまでの、存在の積み重ねが「経験(値)」である。

存在とは、制度でも権利でも守る事のできないものである。
何より存在は、自分自身では守れない。他者が価値を認め、守るものだ
からだ。

私は、「リハビリテーション原義主義」なるものを提唱している。
自分らしく生きる事が人生の最大の価値であり、その事を熱心に追い求めたい。
苦難に向き合っても何度も軌道修正を図り、再び自分らしく生き続けたい。
それこそが私の「存在の生」であり、それを社会に認めてもらいたい。
その為に、他者の自分らしく生きる事も認める。
他者の存在の生も大切にする。つまり認め合うという事だ。
「生」は何とも儚いもの。
互いに真剣に育んでいかなければならない。

生物の頂点に君臨する人類。
その人類が今、アタマ良すぎるがゆえに、自己破壊の危機に瀕している。

持続可能な人間社会の核心は、ここにあると思う。

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