人の価値(基本)①

人は生まれ出たその時は、何人も同じと考える。
生まれながらに悪人はいないし、また善人もいないと考える。
機能的な優劣や見た目の特徴は全て個性と捉える。
個性には当然ながら違いがある。
では、何が同じなのか?
それは同じ”存在”という事だ。
”存在”とは、「自分らしく生きたい」という大きな価値観を持つ一人の人が、今ここに居るという事である。
「自分らしく生きたい」という自意識は成長とともに芽生えるが、それまでの間は養育者が「この子を自分らしく生きさせたい」と自分らしさを大切に保護しなければならない。

「自分らしさ」とは主観的な価値観である。
「リハビリテーション原義主義」では、人が相互に関わり合う上で、他者の「自分らしさ」を認め、尊重する事を求めているが、
何でもそうすべきではなく、やはり善悪に対する客観的な判断は必要である。
基本的な判断の指標としてはこうである。
人は他者と関わりあう上で、皆それぞれ、良いところと悪いところがあって、
その比率は、”6(良い)対4(悪い)"とする。
自分も他人も、人は皆そうであると信じる。観念を固定する。
「リハビリテーション原義主義」は、個人の”強み”をなるべく正確に捉えて、それを頑なに支援する考えである。
故に、誰しも良いところは悪いところを少し上回っているという、人の基本構造についての定めが必要なのだ。
互いにそう信じようとの、人としての優しさ・寛容の要素が、この考えの核心部分にはある。

法の下で健全に生活を営む上においては、悪い要素の”4”はこれ以上増えない。
決して悪いところを過少評価しているわけではない。
それ以上増えた状況は”違法”な状況と考えている。
この提言は、あくまで法を順守している市民同士の関わりあいにおける「人の価値」を定めたものである。
違法な状況においては、厳格に法に処されるべきであり、基本的人権が制約を受ける事になる。
法に触れない限り、「良いところ」や「強み」を最大限に扱う為に、法によって処される前の「情状酌量」の観点は縮小されるべきである。
大事なのは法による厳格な判断の上でしかるべき処罰を受けた後に、社会復帰した際に、社会が再び”6対4”の扱いができるかどうか(社会によるリハビリテーション支援)である。
当然ながら法による処罰を受けている間に、再び社会復帰できるかについては充分な再教育が必要である。
社会復帰前には”判定”が行われ、再犯の可能性等、充分考慮され、懸念が発生すれば社会復帰を遠ざける必要があろう。
判定の為に、服役中においては、単なる労役を行わせるだけでなく、他者との関わりにおける言動・思想・習慣等の個人情報を収集し、法を順守して暮らしを営む市民として復帰できる”素養”があるかどうかの、多角的・総合的な判断が出来る様にする。(法によるリハビリテーション支援)

わが国では、人の価値を、全て法や社会保障で守ってもらおうとする考え方が強すぎると、私は懸念する。
今、社会において、人同士の関わり合いで起こった問題のほとんどに、正義感やモラル意識の希薄化が大きく影響していると思っている。
法には抵触しないが、違法に近い言動。
自分達の利得だけを考えて、「やったもん勝ち」の独欲的な行為。
このグレーゾーンの問題が、問題の多様化もあって、増大する一途だ。
政治の世界で見られると、「もうこの国に未来はない」と落胆する人も多いだろう。
わが国の未来の為に、今一度、自分と目の前の他者の、互いの人の価値を再構築しないか。
「リハビリテーション原義主義」は、人と人の関わり合いに伴って起こる、グレーゾーンの問題を根本解決する、”実現可能な理想論”である。

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