肉体の性・存在の性②

「性概念のリハビリテーション」

我が国において性同一性障害の概念が人々に認識され始めたのは、長い人間史においてごく最近の事である。
「性別違和(=性同一性障害)」の概念は、肉体の性とこころの性が一致しない状態であると説明があるが、
こころの性とは存在の性ではないかと私は思う。

肉体の性と存在の性とは、どのように違うのだろうか。
肉体の性は種の保存・繁栄を目的とした、女と男のマッチングを前提とした概念と言える。

女と男というのは、肉体の性における区別であり、
動物に見られる様に、肉体の性におけるマッチングは子孫を残す為に必須の、性行為欲求の対象である。
人間以外の動物では、子孫を残すという命題に対し、”発情期”という性欲を強制的に高める時期が生体システムに組み込まれている。
あえてこの生体システムが人間にはない。性欲は時期に関係なく高める事ができる。
これは退化ではなく、明らかに進化だろう。
人間は存在を重んじる生き物なのである。
存在の性こそが、自分らしさを育み、互いに関わりあう社会を繁栄させていくものと考えている。

改めて、存在の性とは自分らしい性の事である。
存在の性においては、自分らしく生きる事にのみ必要で、マッチングは必須ではない。
マッチングの成立については、互いの存在の性を尊重して認め合えた時に芽生える可能性がある。
自分の性と相手の性を互いに認め合う事で互いへの親近感が強まり、”愛”の感情が芽生える事を示す。
存在の性には愛、つまり”喜び(presure)”が伴っている。
性欲については、意識を介さない、肉体への機械的刺激に対する反射的な高まりの想定を通して、「肉体の性」の象徴の様に思われるが、私は、人同士の関わり合いを想定した存在の性における性欲の存在を訴えたい。
生きてきて最初に性欲の芽生えを感じた時は、必ず相手の”存在”が、例え潜在であっても何らか意識されたはずである。
それは必ずしも個人ではなく、不特定多数の存在かも知れないし、アニメ等のイメージや、言語、文章から想起されるイメージかも知れない。
人の存在からかけ離れたものに対しても、性的イメージを擬人化して一方的に想起させた時に、性欲が高まるのではないだろうか。
解放された自由な性の概念の中には、想像下であれ、一部の性欲の背景にて、相手の存在を下に描く傾向が強く、人間関係の抑圧された事によるストレスからこのようになると考えられるが、この事が少なからず、存在の性の軽視にもつながっていると考えている。
また、この抑圧された性意識が他者の存在の性を傷付ける懸念がある際に、これを積極的に医療化して治療しない事について強い懸念を抱いている。
「性同一性障害」は、存在の性の概念の提唱により社会が一つの個性として受け入れる事で完全なる医療化は必要ないと考えられる。
存在の性の軽視により相手の存在を傷付ける思想・言動・行為こそが、喫緊に医療化すべき問題である。

存在の性は、改めて相手の”存在”を尊重して、全人的にイメージを意識する事から始まる。
存在の性の多様性を理解し、相手と双方向に認め合う状況に至らない現実としては、なかなか存在の性が成長しない。
リハビリテーション原義主義においては、存在の性を、自分らしさを構成する核心として、LGBTQ概念の広い理解が進む事と同じ道を進んでいく。

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