リハビリテーションのリハビリテーション①

私は長らくリハビリテーションに関わっている。
以前話したが、リハビリテーションは本人の価値観であると考えているので、私は必ず”支援”との表現を付け加えている。
理学療法士である私は、理学療法という治療法を、リハビリテーション支援の主な手段としているが、”治療”というだけに、現在の(傷害の)状態を改善する、(機能低下を)予防するといった”効果”を期待されている。
患者本人からは特に、”治す”事を大きく期待される事が常であるが、
実は、私が長年最も興味を持ち、全力で取り組んでいる支援の対象は、効果の出にくい人、つまり”治らない人”なのである。
”治らない人”をいかに元気にするか。日々その事について思いを巡らし、不可能を可能にしたいとの”野心”を抱き、思考錯誤を繰り返しながら、もし意図して、あるいは意図せず、”治らない人”の笑顔と出会えた時には、この上ない達成感・幸福感を得て、リハビリテーション支援者の理学療法士として、その存在意義が結実するのだ。

”治した(医療側)”と”治った(患者側)”はいつも噛み合わない。医療側は両者を医学的客観的解釈でつなごうとするが、患者側の”治った”は主観的価値観である。
だから噛み合わない。
多くの場合、最後は患者側が”治った”を大きく下方修正して(我慢して)、折り合わせる事となる。
患者は、「医学的に治してもらっても、事実、自分は治っていない」事について分かってもらえないと諦めるわけだ。
単純に”主観的表現”と”客観的解釈”の差である。と言える。確かにそうだ。両者は明らかに違うのだ。

私は、両者が違っていても、仲介として”ある支援”を行えば、合意できるものと考えている。
私は、患者側の”治った”には、「自分らしさ」の回復が隠れていると考えている。

リハビリテーションの原義は「復権・復興」である。
障害を被るなどの苦難によって崩れかけた「自分らしさ」を取り戻すという権利。
これは、基本的人権に関わる、個人に当然保障されるべき権利だ。
それは、「自分らしく生きる」為に、本人自身が再び築き上げるものである。
保障されるべきは「基本的な自尊心の回復」なのである。
世界ではこの原義に基く価値観と、従来の社会保障の部分と、明確に2つのリハビリテーションが存在する。
わが国は、前者の「原義に基くリハビリテーション」を無視して、社会保障制度の中の、提供する利得(サービス)にすり替えた。その結果、わが国では、リハビリテーションと言えば、医療福祉サービスという事になってしまった。
本来人間が社会で生きていく為に重要な主観的価値観である「リハビリテーション」については、教育に取り入れてその価値観を育む事を一切せず、全体としてのリハビリテーションの価値を国家が歪めてしまっている。
これは我が国の主体である主権国民を形骸化する大問題である。
一方で、現状のリハビリテーションは、障害を被った人が、社会で健常者と同等に生きていく為に必要な利得でもある。
社会保障制度上公平である為に、利得の提供にあたっては格差を是正する為に、障害の重さで分類した。
その指標が「機能」である。
社会保障制度の専門用語に、「生活機能」という言葉がある。
人が生活する概ね全ての状況を機能化して推し量ったものである。
目的は、利得(サービス)を提供する側(社会保障制度の運営者側)が、個々の利得の必要性を簡便に把握する為だ。
社会保障制度におけるリハビリテーションは、この利得(サービス)の一部とされ、生活機能の状況に応じて分配されている。これがわが国における”リハビリテーション”のほぼ全容である。

今あるわが国のリハビリテーションは、単なる社会保障のサービスに過ぎない。
リハビリテーションの原義(復権・復興)に回帰し、わが国におけるその価値を、本来の姿に直したい。
リハビリテーション原義主義とは、リハビリテーションを真の存在に復活させる事
すなわちリハビリテーションのリハビリテーションだ

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