構えと存在③

「リハビリテーション原義主義」とは、
わが国において医療福祉分野の意味で通っている”リハビリテーション”を、元々の意味である”復活”や”復興”に照らし合わせて、その意味を再編し、「(苦難にあっても)再び自分らしく生きる」という個人の意思と、それを適切に受容する社会の在り方を、本来の”原義に基くリハビリテーション”として、その価値を強く提示する考え方である。
リハビリテーション原義主義の核心となる概念が 「構え」と「存在」である。
「自分らしく」生き続ける上での、人生のリハビリテーションを個人・社会相互に包容する世界。その為の、
「構え」とは、社会に対する個人の主観的な概念、「存在」とは個人に対する社会の客観的な概念である。

「存在」
「存在」とは、社会における自分の居場所。肉体ではなく、自分らしさ(アイデンティティー)の在処である。
自分らしく生きようとする個人が、他者と相互に自分らしさを尊重し合い、自分らしい自分が「そこに居ても良い」と認め合う事。
これを存在を認めるという。
他者や社会が、個人の違いを認識するのは、個人の自分らしさであって、客観的に捉えた肉体の差異ではない。
障害の有無や性差は個性であるが、客観的視点で捉えるのではなく、主観的な個別の差異を重視する。
主観的な個別の差異は、自分らしさの根幹である。
本人が自分らしさの表現の上で、”違う”といえば違うし、”適切な配慮を受ければ皆と同じ”と言えば、同じと認める。
主観の世界は自由すぎて捉えどころがないと、多くの人は思うだろう。
「だから」コントロールできない。統制できない。
統制する為に、この世の中は客観的評価で溢れている。
自身が医療の一端に身を置いているせいか、多くの医療化するべきではない問題が、「病名」をつけて医療化している事実があると強く感じる。
私の存在の一部である「リハビリテーション」も医療化され、本来の意味から外れた存在に止められている。
私はそれに抵抗すべく、必ず語尾に「支援」を付けている。
リハビリテーションは、医療福祉サービスとして提供するものでは決してなく、人生の根幹に関わる価値観だと、
正そうとする私の確固たる意思だ。
本当に社会を、個人を、統制する為の客観的評価だろうか?
際限なく乱れる事を恐れすぎて、個人の主観に基づく個性の受容を、あまりにして来なかったのではないだろうか?
当然ながら統制の必要性は分かっているつもりだ。
ただ、少しだけ、個人が主張する主観の個性を、互いに認め合える社会になればと、思うのだ
リハビリテーション原義主義における「存在」は”権利”ではない。だから法で守るものではない。
社会における”配慮”であり、”道徳観”の教育の中で育むべき、個人の価値観の相互認識なのだ。

主観に基く個人の「その人らしさ」をお互いに認め合おう。
相手の事を、相手自身が言うままに受け入れて、「あなたらしいね」と言い合える社会になればと、切実に思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?