肉体の生・存在の生②

私が提唱している「リハビリテーション原義主義」は、存在の生を全面肯定し、かつ重きを置く考えだ。
元々のリハビリテーションの概念は、復権すなわち存在の生の回復という意味であった。
私は「自分らしく生きる価値を復する事」と表現している。

一方で今の我が国で語られるリハビリテーション概念、すなわち、
社会保障における保険医療制度上の医学的リハビリテーションでは、「生体の生」が重視される。
生体の生、すなわち、心身の機能を回復させる事が、医学的リハビリテーションの主たる目的である。
リハビリテーションが制度上のサービスなので、期限付きでもある。

原義に基づくリハビリテーションは、社会保障制度の一環ではなく、生きる上での基礎的な考え方である。
生体の生のありようがどうであろうと、万一亡くなった後でも、苦難を経て一旦失墜した自分が、どのように自分らしく生きていけるか、あるいは生きたかという個人の生きる証あるいは生きた証を回復しようとする考え方だ。
有名な「ジャンヌダルクのリハビリテーション」や「ガリレオのリハビリテーション」は、
彼らの生体の死後、存在としての偉業の価値の回復がなされた事を表している。

リハビリテーションとは、ウィキペディアによると
「身体的、精神的、社会的に最も適した生活水準の達成を可能とすることによって、各人が自らの人生を変革していくことを目指し、且つ時間を限定した過程である」
とされている。
ここでは2つの生を巧みに混在させた様子がうかがえる。
身体的、精神的に最も適した生活水準の達成とは、生体の生を重視した取り組みである。
社会的に最も適した生活水準の達成は、社会における存在の生を取り戻す事といえる。
この2つの生を取り戻して、人生の変革を得ようとする、ここまでの文面に違和感はない。

しかし、次の「時間を限定した取り組み」という文面からは、
あくまでリハビリテーションは社会保障の限りある財源が基礎にあるという事がわかる。
社会保障制度の枠組みによってのみ、リハビリテーションは存在すると言う事だろうか。

存在とは、制度でも権利でも守る事のできないものである。

制度でも権利でも解決できない”いじめ”という問題がある。
”いじめ”とは、極めて閉鎖的な社会の中で、個性を理由に個人の存在の壊滅を図ろうとする集団的暴力行為だ。
ある個人の個性にケチをつけ、集団で弱者として蔑み、その存在を潰し亡き者にする。
これはいわば存在の”共食い”だ。
実際にいじめ行為を行った者だけがクローズアップされるが、黙って傍観している者は、いじめられている者の存在を黙殺している事に他ならない。集団ネグレクトによる存在殺人行為である。

いじめ問題だけでなく、制度改正でも権利擁護でも、自分らしく生きるという価値は守る事ができない。
現代の諸問題のいくつかが、存在の生の向上を求めているように、私には見える。

リハビリテーション原義に基づく、存在の生を高めあう価値感の提唱を、私は続ける。

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