肉体の性・存在の性①

生物には「生」と「死」があって、生体においては生は偶然、死は必然であった。
偶然の生で始まって必然の死で終わる。
生体には、偶然に始まった生を広く繁栄させる為に、「性」の別が備わっている。
これが生体の性である。

人間という生物には、「性」について2つの概念が備わっている。

1つはこれまでの生物としての生の繁栄を目的とした「生体の性」である。
もう1つは、人間が自らの頭脳で描く、アイデンティティーの一部としての「存在の性」である。

「死」においても、「生」においても、人間にとって「生体」より時に「存在」が大切である事を、これまで語ってきた。
この考えは、「性」においても全く同じだ。

「死」「生」そして「性」。
これまで私達は、これらの概念について”存在”の存在を軽視し、極めて生体的に捉え過ぎてきた。
生体的に捉え過ぎた結果、全てを科学的な考え方で解釈し、区別し、処理してきたのだ。

これらが行き詰まると、現状、”存在”の居場所である権利という法的解釈に最終決定を委ねる事になる。
”存在”は全てを法で守られるものではない。なぜなら法は時に”存在”を軽視するからである。
法は間違ってはいない。
なぜなら法は、”違法”な時に効力を発揮するからだ。
私の訴える”存在”とは、法に抵触しない、市民の日常における”存在”なのである。
普段の”存在”が守られていない事で起こった、歪んだ諸問題に、当事者の存在軽視の違和感を残したまま、問題が収束を図らされているのだ。

改めて、
自分らしく生きる上で、自分らしい性は重要である。
性同一性障害という”病態”における「こころの性」とは、あくまでも医学的解釈(やや無理強いの)にほかならない。

リハビリテーション原義主義では、その人の普段の”存在”を認める上でまずは、正しい「存在の性」を頑なに捉え、
その上でその人らしさを支援する。

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