忘れられない事故
大荒れの天気の翌日、普段より早く仕事が片付いたので相棒のトラックを洗車することにした。
今年でドライバー20年目。トラックもトレーラーも乗って、色んな経験をしてきた。若い頃はコロコロ仕事を変えてた私が、20年もこの業界にいるなんて…
洗車をしながら、いつも私はトラックと会話(妄想?)する。そして、いつも思い出す事がある。
もう10年以上前になるが、私は朝一の納品の為に山陰方面にトラックを走らせていた。県境の山間部、時刻は午前3時くらいだったと思う。
日頃から家事に育児に仕事にと、常に寝不足状態で眠気と戦っていた私は、その日も山間部に差し掛かった頃、少し眠気を感じていた。ここを越えればコンビニがあるから、いつもの様にそこで休憩しようと思っていた。が、この日は違っていた。
登り坂を登りきり、下りに差し掛かった数秒後、一瞬にして意識が飛んだ。ドライバーなら誰もが理解してくれると思うが、眠くなる時は徐々に眠気が強くなってくるのではなく、一瞬にして意識が飛ぶ。
そして、ハッと気が付いた時には目の前に法面が近付いていて、もはや成すすべもなく法面に乗り上げ、トラックは横転して電柱に激突して止まった。私はただ叫びながらハンドルにしがみついている事しか出来なかった。
激しい轟音が静まって目を開けると、キャビンのど真ん中に電柱がめり込んでいて、数cmずれていれば間違いなく即死であったろうという状態。粉々に砕けたフロントガラスから、最低限の荷物を持って這い出した私はしばらく放心状態だった。
しかしすぐ我に返り、誰も巻き込んでいないことを確認すると、急いで警察に電話した。すぐ向かいますとは言ってくれたが、なんせ街中からは離れた山間部。時間がかかるのは仕方なかった。
そして会社へ連絡。「怪我はないんか?!すぐに行くから、落ち着けよ!」と言ってくれた。でも、いくら急いでも会社からは3時間はかかる。
そして、積み荷の出荷元にも連絡。出荷元の担当者も、開口一番「怪我はないんか?!」と…。そして、「荷物は再出荷かけるから、大丈夫。こっちのことは心配しなくていいから」と、一言も私を責める事もなく、そんな深夜にもかかわらず出社して、再出荷の段取りにかかってくれた。
この周りの人達の対応に、どれだけ、精神的に救われたか…
しかしそこから、警察が到着するまでの時間がとてつもなく心細く長く感じられた。
幸い道路を完全に封鎖する形ではなかったので、何台かの車が通り過ぎて行った。
深夜の山間部、交通量は少なかったが、通り過ぎる乗用車は皆スピードを落とし、興味深げに見ては加速し走り去って行った。私はトラックの影に隠れるようにして、警察の到着を待つしかなかった。
しかし、トラックドライバーは違った。2トン車だろうと4トン車だろうと、大型だろうとトレーラーだろうと、誰一人として素通りするドライバーはいなかったのだ。
皆、必ずハザードを焚きながら止まり、「大丈夫か?!怪我はないんか?警察は呼んだんか?!」と、声を掛けてくれたのだ。わざわざ降りてきて確認しに来てくれる人も…。「わし、まだ時間あるけぇ気にするな。ほんま大丈夫か?」と。私、「警察呼んだから、大丈夫。ありがとう。」
もちろん会ったことなど無いドライバーばかり。
ただ同じハンドルを握っている仲間なだけだけど、お互い大変な事も辛いことも解っているから見えない仲間意識がある。この時ほど、ドライバーの人間味に感動して、この業界にいて良かったと思った事はない。
全国のドライバー、万歳!
世間では、ドライバーは底辺の仕事なんて言う人もいる。免許があれば、誰にでも出来るって思ってる人がいる。でも実際、そんな甘い世界じゃない。
例えば、あのデカい荷台や箱に荷物をぎっしり手積みで積む、所謂「バラ積み」。荷物の種類にもよるが、まあキツイったらない。入社しては数日で去っていく…そんな人は数しれない。でも、そんな仕事を日々こなしているからこそ、自然と仲間意識が生まれるのかなと…。
だから私は、20年もここにいる。
この業界が大好きだから。
世の中の人がゆっくり布団で眠っている時も、眠い目をこすりながら走っているドライバーがいる。だからこそ、みんながいつコンビニやスーパーに寄っても商品が並んでいるし、ネットでポチった商品が翌日には届いたりする。
食料品や生活必需品はもちろん、みんなが当たり前に乗ってるその車や自転車のネジ1つから、ビルや道路を建設する鋼材資材まで…トラックが関わっていないものなどほぼ皆無であると言っても過言ではない。
日本全国津々浦々、毛細血管のように隅々までトラックは走り、国内物流の9割以上を支えている。
24時間365日、一台もトラックが走っていない瞬間は存在しない。私は、この仕事はすべての人々の生活の基礎を支えていると思っているし、誇りを持っている。
2024年問題。この物流業界に危機が迫っている。
大好きなこの業界、崩壊して欲しくない。もっと、みんなにこの業界の実情を知って欲しいと強く思う。
話を戻して、その事故の後の事。
肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた私は、会社にはもうトラックを降りると申し出た。
しかし会社は、「日勤で地場仕事でいいから残って欲しい」と言ってくれた。必要としてくれる事は、素直に嬉しかった。
でもとにかく、精神的にも体力的にも落ち着きたいから、少し休みを貰う事にした。
事故を起こしてしまい、沢山の人に迷惑をかけ、損害を出してしまった事は本当に申し訳なくて辛かった。
しかし、私がもっとも辛かった事は、大事な相棒を自ら殺めてしまった事だった。
事故を起こしてしまった時のトラックは、今迄何台か乗ってきた中でも一番愛着のあるトラックだった。
仕事に出る時は、「今日もよろしく。頼むな。」と挨拶し、一航海して帰ってきたら、燃料を入れて洗車する。ワックスもかけ、いつもピカピカに磨き上げていて、よく会社の人に、「そんなに磨いたら、色が剥げてまうで〜」と言われていたものだった。
人間だって、仕事から帰ったらご飯を食べて風呂に入る。それと同じ。家族よりも仲間よりも、誰よりも長い時間一緒にいる大事な相棒。ドライバー人生の中で一番しんどい時期の相棒だったから、一番愛着があったし、いつも話しかけて会話していた。
あちこちぶつけたりした事もあったけど、いつも会社がすぐに修理してくれて、直って帰って来たら、「おかえりー!」と抱きついたりしていた。
そんな大事な相棒が、この事故で修理も無理だろうというくらいに大破してしまったのだ。
キャビンには電柱がめり込み、ウイングはねじ曲がっていた。
これだけの衝撃にもかかわらず、私は全くの無傷だった。最後の最後まで、体を張って守ってくれたんだ…
そう思うと、辛くて辛くてどうしようもなかった。
私は、自分がトラックを降りるのは、こいつから降りる時だと思っていた。それが、まさかこんな形で…。
言うまで間なく、私は相当このショックを引きずり続けた。
私がそのトラックをどれだけ大事にしていたか会社の人はみんな解っていたから、事故の日も、無惨なトラックの姿を私には見せまいとして、離れた場所に停めた車に私を座らせてくれていた。
その後も、私がトラックを見ることはなく、車内に残っていた私物も同僚が引き取りに行ってくれた。
しばらく休暇を貰った後仕事に復帰した私を、会社も同僚も、以前と何も変わらず迎えてくれた。
今でも、ホントにこの会社、同僚で良かったと感謝の気持ちは忘れることはない。
20年も走っていると、ホントに色んな事があった。
道を間違え、大阪のとある市街地のど真ん中で、交差点を封鎖して向きを変えようとした時、早朝のまだ車が少なめの時間とはいえ、道のど真ん中に立って車を止め、誘導してくれた関西人の兄ちゃん。運転席から大声で「ありがとー!!」と叫ぶと、「姉ちゃん、気ぃ付けてなー!頑張りやー!」と、笑顔で見送ってくれた。だから、関西大好き!
四国では、狭い道に迷い込み、泣きながら数キロバックしたことや、どんどん狭くなる道に危機感を覚え、近くにいた軽トラのおっちゃんに広い道まで誘導してもらった事も…。
積雪の山道では、事故で足止めを食らった時、サイドブレーキで止まろうとしたらいきなり滑り出し、フットブレーキから足が離せない状態に。そんな状態で、「姉ちゃん、絶対足離すなよ!わし、死んでまうからな!」と言いながら、神業的な速さでチェーンを装着してくれた境港のドライバーの兄ちゃん。あの時の震える足の感覚は、今でも忘れない。
まだまだ色々な事があったけど、色んな場所で色んな人の温かさにふれてきた。にっちもさっちもいかない状況になった事も数しれず…でもいつも、助けてくれる仲間がいた。やっぱりこの業界、あったかい。
確かに労働環境は、厳しい業界かもしれない。でも、中の人間は温かい。だから、是非、ドライバーが働きやすい環境を作って、若者がやってみたいと思える仕事になるよう願っている。
事故の後、会社の人が、私が乗っていたトラックを細部まで再現して模型を作ってくれた。ホントに涙が出るほど嬉しくて、今だに私の部屋に置いてある。さすがに10年以上経っているので、細部の部品は劣化して壊れてしまったところもあるが…。
そして今、洗車している相棒は、あの大事な相棒と同じ車種だ。もちろん年式は新しいが、つまりは後輩。「後輩も可愛がってやってな」と、アイツに言われている気がする。今も天国から見守ってくれているかな…と、ふと思う時がある。
全国のドライバーの皆さん、あなたが運転しているトラックは、一歩間違えば、いとも簡単に人を殺めてしまうほどの威力を持つ物です。でも同時に、全ての人々の生活を支える物でもあります。この仕事に誇りを持って、今日も安全運転で頑張りましょう!