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DVからの脱出を決意したあの日…1度目の家出から(1)

2009.4月18日のアメブロの記事を補足を加えながらブラッシュアップ

DVやモラハラに苦しんでいた昔の私の気持とシングルマザーとして生活を立て直していく道のりを少しずつ書き綴ってみようと思います。


***

どんどん記憶の奥深くに沈む日々・・

今ある幸せをしっかり考える為に・・DVで苦しんだ結婚生活から、なんとかいま落ち着いた日々を送れるようになった今までの日々を振り返ってみようかと・・

思い出しながら少しずつ・・


今でも鮮明に覚えている

1995年1月…阪神・淡路大震災の前日。


それは唐突に『家を出なきゃ』と決意をした日でもある。
当時、長男小1・長女2歳・次女1歳だっただろうか。

車の鍵も、現金も取り上げられていた私は、ベビーカーに乗せられるだけの子供達の着替えを詰め込み・・家を後にした。


『かえってくればまた暴力、暴言・・もう耐えられない・・・。』

その前日に、帰宅した元旦那が「まだいたの」と冷たく言い放った言葉を思い出しながら・・・・・家を後にした。

とにかく顔を合わすのも怖かったのだ。

もう夕暮れもまじか・・・ 子どものために貯めていた(20万足らずだったろうか)郵便通帳握り締め・・もうひきおろせる時間ではなく小銭すら持っていなかった。

当時1歳になったばかりの次女をおんぶして、子ども達と歩きつかれ、近所のビジネスホテルに事情を話し一泊とめてもらった。

快く泊めてくれ、遅い時間だからこれしかないけれど…と出してくれた塩おにぎりのあたたかさは心に沁みて、どこか涙の味がした。

眠れぬ夜が明け、翌朝。
部屋のテレビをつけたら一面の火の海で・・・・ ・衝撃的な映像が広がっていた。
阪神大震災…その燃え盛る炎を呆然と眺めていた。

そして、少しばかりのお金をおろし歩いて6kmほど離れた市役所に向かったあの日。

1年生だった長男と2歳の長女と0歳の次女と…

市役所で相談をして、その日のうちに母子寮のあるゴルフ場へ連れて行ってもらった。

託児所もあり、幼い2人を預け、長男は小学校へ。そして私はキャディ見習いの日々が、到着した翌日から始まった。

寒さ真っ盛りの中、当時の市役所の人たちはいい人で食器や防災ずきんやあちこちから集めてもってきてくれた。

寒い部屋で子ども達と布団にくるまって…不安と安堵に包まれて逃亡生活?は始まった。

朝早くからの仕事で、託児所に迎えに行くと嬉しそうに立ち上がっては、ペタンと座ってしまう次女の姿が今でも目に焼きついている。

長女もけなげに託児所で楽しそうに歌をたくさん歌っていた。

長男はこの日々の事もまだ覚えているが下の子達には、ほとんど記憶として残ってはいない。

長男が炒飯を作ってくれたり、他の子のランドセルを持たされて帰ってくる姿を覚えている。

長男は苦労を一杯覚えているから私に優しかったのだろう。

日が暮れると灯りが少なく真っ暗になってしまうような見知らぬ土地での生活が始まった。


ゴルフ場にはリスの走る姿も…。

朝、託児所に向かうバスの中で朝日に向かって、みんなで座って日向ぼっこをする日本猿の群れをよくみた。赤ちゃんを抱っこするお母さん猿の姿もよく見かけた。

慣れないキャディの仕事にあっという間に体重が減っていった。

苗字も(偽名に)変えてもらって小学校に通えるようにしてもらった・・・なのに・・・信頼すべきところから(役所系)私の居所が漏れてしまったようだ。

元夫は口が上手く外面は良いタイプ。子ども達に会いたい、勝手に連れ出した的なことを言って聞き出してしまったらしい(詳しくは聞いていないので定かではない)


5年間姿隠せれば相手の承諾がなくとも別れられるから、と言われて僅かな望みをかけていたのだが、このときは数ヶ月であえなくつれ戻されてしまったのだ。

まだDV法もなく・・・逃げ切れなかった。

そして『もう2度と暴力は振るわない』と、その言葉を信じようとしてしまった。

1回目の家出は半年弱で幕を閉じた。

けれどもやはり変わるわけないんだよね。簡単には・・・・・

暴力も辛かったし怖かったが、何よりも一番哀しいのは、私に両親がいないことでなじってくることだったかもしれない。

捨て子だった事実は、私の力ではかえようがない。
『親の顔がみてみたい』と嫌味混じりで言われる度に、この人は私の味方ではないんだなと感じたように思う。


それでも子ども達のためには、両親が揃っていた方がいいのではないかとがんばったんだけれど。

一緒になってから、旦那は5年間、ほぼ働かなかった。

出会った頃は(後から知ったのだが土地が売れたらしく、そのお金で給料だと渡してきて、働いているふりをしていた)

私も当時は訳あって、人生に投げやりになっていた(その話はまたいつか)

たまたま仕事先で知り合い、小さな額のお金を貸したことがあり、その後全く音沙汰がなかったので、返してもらうために家を探し当てて訪ねたら、家の前によく似た顔の女の子が立たされていた(子どもがいる事も知らなかった)。

小学3年生と入学前の女の子。
この子達に私は同情してしまったのだ(わたしも実の親ではない人に育てられていたし、この子達の親になるのもありかもしれないと…元夫のことは好きでもなかったのだが、私は捨て子であることを理由に好きだった人の親戚に反対され分かれたことがあり、投げやりな気持ちもあったと思う)

元夫は背も高く体格も良い…病弱なわけではないが…今思うと心が病んでいたのか。

昔は飛行機のパーサーをやっていたらしいが離婚してからは幼い子ふたりを抱えてトラックに乗ったりの仕事をしていたと言っていた。


土地が売れたお金も尽きたのか…お金を入れることは無くなった。

私は、まだ幼かった長男を背負ってビジネスホテルの布団とかたたむ仕事をみつけた。

長男はかなり重く今でも私の肩は負ぶい紐の後が少し凹んでいる。

そこも前借とか頻繁にさせられるので首になり・・・・・もう食べるものも買えなくて(大切にしていた本や切手も売ってしまった)

スーパーマーケットに行く道でふと見つけた看板。。“クラブ伯爵”でのホステス募集。日払い可の言葉に引き寄せられ電話をかけた。

いきなりの面接に行った時に、事情を話すと前借させてくれて、そのお金で仕事で履くストッキングと食料をかった覚えがある。

まだ長男が一歳半ぐらいの頃だろうか。

それから数年そのクラブで働き家族を養っていた。

まだバブル真っ盛りの頃でまばゆいドレスを身にまとい、無口な私でも黙っていても多少様になったいたようだ。若い頃だからこそか…。

不動産屋さんなんて、お金ばら撒いてて、本当に配っていたり。

ママたちも毎夜、ホストクラブだお寿司だ・・ まだ今ほど綺麗じゃなかったけれど・・かなりステキなニューハーフの人たちも、お店に遊びに来てくれて逆におつまみとか取ってくれて、本当に女性らしい仕草で凄いなと思ったものだ。

夜の蝶である店で働く子たちも案外皆優しく、店で着れるような服の無い私に、今では絶対着れないような派手派手スーツとかたくさんくれた。

ジャガード織の豹柄のスーツやサテン生地の真っ黒で艶やかなドレスやetc

私は食べるものにも困る状態で働きにでたので、高級クラブで働けるような服の準備などできなかったので有り難かった。

店のお客様には、出稼ぎで東北の方から働きに来ている職人さん達もいたけれど、親方?に連れられてきてる若い子は素朴な雰囲気で『こんなお姫様みたいな人たちが…』と目を丸くしていた。

子どもと一緒に写っている写真でもいいから欲しいと言われ一枚あげたことがある。

その人は帰省してからも土地の美味しいものとか送ってくれて、お店で膝の上に置いて使えるような華やかなハンカチを添えてくれていた。

ああいう人と一緒になれていたら、ちょっと違う人生だったかもしれない、そう思ったこともある。

当然、子どものいる私は毎日定時にしっかり帰っていて、美味しいものをご馳走になるとかはなかったけれども、毎日歌えたし(歌が好きだったので)楽しいといえば楽しかったかもしれない。

お化粧もキチンとして、ロングの髪をゆるーくウェーブさせて。

近所の当時中学生くらいの女の子にも「いつも綺麗にしてますね」とか言われたりもしていた。

でも基本対人恐怖症気味の私にはかなりのストレスだったけれど・・ あまり喋れなく盛り上げるとかはできなかったけれど、若さゆえ、なんとなく許されていたのかもしれない。
無口なタイプが好きな人もいたので、なんとなく指名してくれる人もいたし、当時は景気も良かったので「いい人見つけろよ」とチップをたくさん置いていく人もいたりした。(すべて元夫の飲み代とパチンコ代消えていったのは悲しい)

当時のクラブは会社の接待も多く、そんなに変な人もいなかったが、たまに酒癖が悪い人がいてもアルバイトのボーイさんとかがさりげなくかばってくれた。

ただ、そのクラブにも元夫はお金もないのに来てしまい、『お客さんと笑ってただろ』とかで殴られたことがあり閉口した。

当時は前妻の子も2人一緒に暮らしていたから・・・夜働いていても朝も普通に早く起きなきゃいけなかったし・・・・ハードだったな。

まだ、あの頃は育ててくれた養父母が生きていたから、私が逃げれば迷惑かかって血の雨が降りそうだったし・・ (実際元夫は喧嘩になり養父の肋骨を折ってしまったことがある)で、なかなか別れる選択を選べなかったが、さすがにもうこれ以上働かなければ別れる覚悟を決めなきゃと決意した頃、不意に(何か察した?)旦那は働き出したのだった。

店で私を殴った騒ぎが原因で、私は店を辞めた。

それからがまた地獄だった・・・
今まで散々遊んでたのに・・・働き出し、私が店を辞めた途端に、俺の稼ぎで食っているのはダニだとかいうし・・・

その頃から酔うと暴力も振るうようになった。

散々働かせておいて、急に仕事することをみとめなくなって・・・・・

それでも私が我慢さえすれば…そう思って暮らしていた。

ところがある日、酔って言い掛かりをつけてきて、小鍋を私の顔めがけて投げてきた。

当然痛いのもあるが、顔はお岩さんじょうたい。
人の顔ってこんなに歪むのかと思うほど腫れた。

自分でも、鏡を見るとわらえるぐらいこわかったな・・・・実際子ども達にも、お母さんの顔が怖すぎて笑う現象がおきていた。(人は恐怖心回避の為にも笑ってしまうらしいですね)

そのとき、私の中で何かがはじけた気がする。
もう好きに生きる!

辛い夜には、いつも光の中で笑う子どもたちと自分の姿をイメージして、『絶対そこに行くんだ、ここからは抜け出る』そう心に誓っていた。

腫れは引いたけれど、目の辺りに紫のあざがまだ残っている状態(アイシャドウみたい)の頃、ふと美容院に行こうと思った。

若い流行りのカリスマ美容師的なお兄さんが何も聞かずに「素敵にしましょうね」と、軽やかにとても似合う髪型にしてくれた。その足でジムに行って申し込んだ。(その美容師さんはその後店を出し、それから20年来の付き合いになる)

バイトのお金でジムに通いだした私だが…

最初はぎこちなくエアロビクスを踊っていたのだが、徐々に体力もつきサマになっていく。
まだまだ私はがんばれるかもって思えた。

もうその頃には、初めて家を出た日から5年がたっていた。

毎日けなされ自信喪失していた日々の中・・・美容師さんの髪型の魔法とジムで身につけた体力が私に自信をつけてくれた。

続きはまた・・・

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