結婚していた頃・・・暴力の始まりから一度目の家で迄の日々 シングルマザーへの道のり(5)
2009.5.1のアメブロ記事から
今改めて読み返すと、忘れてしまっていたことなどもあって、『あぁ、そんなこともあったんだったな』と改めて思い出す。あの日々の辛さも、“時は薬”…すっかり薄れてしまったけれども。
あの日々を思えば、せっかくの自由な今を有意義に過ごさないとなと思います。
***
以前に書いた文と重なる部分も多いが、少し細かく振り返ってみる。
情にながされたまま始まった結婚生活。
当然結婚式もなく・・・ただ入籍をすます。
最初の数年・・ほとんど働かなかった元旦那。一緒になる少し前まではきちんとしたところに勤めているという話を信じていたのだが・・。幼子を2人抱えて、うまく働けなかったのだなと同情していたのかもしれない。
後から知ったのだが、前妻も最終的には『子どももいらないから別れたい』と逃げてしまったらしい。
当時まだわたしには育ててくれた養父母が生きていたので、私が最終的にふたりの面倒を見ていかなければいけないと思っていた。
そんな時に聞いた『俺に任せておけ、しっかりお前の親も面倒をみるから』と口先だけの言葉(本当に思っていたかもしれないけれども)に、このくらいの人の方が頼り甲斐があるのかもしれないと微かな望みをかけてしまったのだろう。
20歳の頃に大好きで結婚を前提にして付き合っていた恋人がいたのだが、私に本当の親がいないことから、相手の親戚から『何処の馬の骨ともわからない人と一緒にさせるわけにはいかない。もし犯罪者の子どもだったらどうするんだ』というような事を言われ、反対されたらしい。
ご両親も親戚の反対を押し切っては無理と言ったらしく、悲しい別れとなった私は、『私みたいな身の上であれば、どうせ好きな人と結ばれないし、強引だけれども私を必要としてくれ養父母のことも見てくれるなら…そういう人と暮らす、それもありなのかもしれない。』
そんな何処か投げやりな状態で好きでもないのに流れに任せてしまい浅はかだった。
すぐに身重になってしまい、(この時点で嘘が多いなと気づきながらも片目をつぶることにしてしまった)引き返すこともできずに・・
子どもが産まれたら変わるかもしれないと微かな望みを抱いていた。
最初、貸したお金を返してもらうはずで探し出して見つけた相手の家。川岸の市営住宅と聞いていたので、地図を頼りに探していると、たまたまそっくりな顔をした女の子が玄関前に立たされていて『えっ!?子どもいたんだ…』唖然としながらドアを叩いた。
部屋に入ると…
もう1人の子ども…調度小銭を数えて子どもにお使いを頼むところだったらしい。
「いま、これしかない」とコタツの上の小銭を指す。
信じられない状況だったが、お腹を空かせた子ども達に同情してしまった。
当時わたしは一人暮らしをしていた。
若かった私もまだ貯金もあまりなく、成人式に自分で買った振袖と当時はパソコンではなくてワードプロセッサ・・それを質(質屋さん)にいれ、当面のお金を工面して渡してあげた。
今思えば、本当に馬鹿なことをしたと思うけれども、小さな女の子ふたりが、とても不憫に思えてしまったのだ。
私は幼い頃に工事現場の飯場に置き去りにされ、工事の場所に合わせて転々するプレハブ暮らしだったころに、同じ飯場で暮らしてたことのある職人のおじさんから、小学生になったお祝いにともらったもらった“大事な切手のコレクション”も売ってしまった・・・
本好きだった私の大事な本たちも・・すべて売って食費に換えたりしていた。
旦那の元には、当時小学生入学直前の子と3年生になろうとする娘さんがふたりいた。
今思うと、あの人は、このふたりの子たちの世話をする人が欲しかっただけだったんだと思う。
それでも・・・私はがんばってあれこれ生活を立て直そうとしていたような気がする。
何故か当時のことは詳しく覚えていない。必死過ぎたのか、辛過ぎたのか…。
3年生の女の子はお母さんの記憶も残っていたので私の事はお姉さんと呼びたいと言っていた。
最初のうち、旦那はバイトのような仕事をしていたんだろうか・・・給料として少ないけれどお金を入れてくれたようにも覚えている。
その頃、たまたまバブルの頃で景気が良く、夫の田舎の土地を買いたいという話が来た。初めて夫の腹違いの弟が家に来た事を覚えている。
そこそこの値で売れて、その時にはクーラーや洗濯機を買ったのを覚えている・・。
一応貯金したはずだが・・あっという間にパチンコ等で消えてしまったようだ。私のお金ではないので、なにも言えなかったが…。
小さな市営住宅にわたしも住むようになった翌年、私が24歳の時に長男が産まれた。
息子が半年を迎える頃には全く働かなくなっていた夫は土地が売れて入ったお金を賭け事で使い果たしていた・・
生後半年過ぎの息子をおんぶしながら わたしは近くのビジネスホテルにパートにでた。
状況を話すと理解してくれ、息子と一緒に働かせてくれた。
川沿いの土手を自転車で通っていたが、土手にはたまに蛇がいたりして・・びっくりした。
おんぶしていれば泣かないので、ずうっとおんぶしたままお布団たたんだりがんばっていた。
でも・・夫が直接勤め先に行って私が働いた分をよこせと、度々前借をするので・・困るということで数ヶ月で解雇されてしまった。
とことん食べるものも尽きて・・・たまたま目にした看板。
クラブのホステスの仕事で日払いができるらしい。
一応夫に聞いてみると、全く反対せず・・『お金が入ればいいんだ・・この人は。』と失望したものだ。
そのとき息子が8ヵ月。まだ母乳をあげている頃で、仕事先でも「なんか乳臭いぞ」なんていわれたりしたものだが。
母乳もまだあげていたから、お酒は一切飲まずにウーロン茶で酔ったふりをしていた。働いている女の人たちもウィスキーを入れたフリして水割りを作ってくれたり上手に誤魔化してくれていた。
最初は店で着るような服さえなかったが、お姉さんたちが派手な服をたくさんくれた。
ママからの貼り紙がロッカーにあった(クラブらしい華やかな服装で出勤するようにと)。
夜7時から夜中の12時まで。当時で一時間二千円。1日1万円だが、
バブルの頃なのでチップも多く1人で5万円とか置いていく人もいた。
充分に夫&ふたりの娘さんと長男の生活はまかなえたはずだったが、働けども働けども飲み代とパチンコに消えていくお金。
まだ幼い子を残し・・夜に店へ出る悲しさ。
家にかえると、旦那がキチンと子どもを見てくれているわけもなく、私のCDをばら撒き、カセットテープを全部引き出した上で寝込んでいる息子をみて・・なんと切なかったことか。
私が働いている間も 旦那は飲み歩いていたのだ。
一度逃げ出して、その頃はまだ健在だった養母と養父の家に、にげたことがあるが・・・やはり酒乱の養父と旦那の争いになるのが怖くて、迎えに来た夫に大人しく連れ戻される道を選んだ。(その時、珍しく養母が糠を分けてくるて持たせてくれたことを、ふと今思い出した。)
クラブ伯爵での仕事。。3年以上だったかな・・。その間、夫は全っく働かなかった。
上の子たちも学校があるので、夜遅く帰る私だが、朝は普通に早起きをしなければならない。
若かったからもったが・・・結構きつかった。
一度、2階から階段を降りる途中で気を失い(貧血?)落ちたことがある。
下に落ちて痛みに耐えていた時にも下で寝ていたあの人は起きてはこなかった…なんとか2階の息子と寝ていた部屋に戻ると、まだよちよち歩きだった息子が心配そうにお布団をひっぱってわたしに掛けてくれたことを覚えている。
自分は働きもせずに、わたしが仕事が終わる頃に、迎えに来たりする夫の存在を知っている人も多かった。
お客さんの中には当時羽振りの良かった○○ザの親分とかもいて、「アパート建ててその収入で生きていけるようにしてやるから、そんな家を出たほうがいいんじゃないか」とか言ってくれたりもした。
それでも、まだ変わるかもしれないって僅かな望みを持っていたと思う。
夫も複雑な家庭で育っている・・・かわいそうな人ではあるのだ。
妾の子と呼ばれ、腹違いの弟たちもいたようだ。
でも大人になった以上・・・過去のせいにいつまでもしているわけにはいかないんだよね。
当時働いていたクラブには、本当にいいお客さんもいて、大人しく飲んでいくだけで、たくさんチップをおいてくれ、「はやくいい結婚しろよ」とか泣ける言葉をくれた人もいた。
クラブ勤も3年過ぎた頃に、さすがにこの夏までに働かないようなら別れる方向で考えようと思い始めた。
が、何か察したのか?夏になる少し前、私の中のタイムリミットギリギリであの人は働き出したのだ。
最初はゴミ収集車の運転手だったが、それでも仕事を見つけ働いてくれるのは嬉しかった。
だが・・そこからが本性?がでてくるのだ。
それまではただの飲んだくれだったのだが・・・。
働くようになり威張りだした。
会社の同僚をクラプに連れてくるようになり、当時賑わっていた店が混んでいては入れなかったりすると機嫌が悪くなる。
そして、たまたまお客さんと笑い合う私に腹を立て店でいきなり殴られた。
それが私に対しての初めての暴力だったのだが・・・。(私は一緒になるときに、暴力は嫌いだから、もし暴力ふるわれたら別れると言っていた。)
それまでも娘たちには 虐待に近い怒り方をするので、怖いなとは思っていたのだが、下手にかばうと余計荒れるから手に負えなかった。
その件(お客様の前で殴られた事件)でわたしは仕事をやめることになる。
そして、その頃に長女を身ごもった。
すると今度は働かないで家にいるから 『俺に寄生するダニだ』とののしる。酔った言葉とはいえ・・・かなり傷ついたものだ。
そして親のないわたしに向かい 親の顔がみてみたいとか・・その他もろもろ・・あまりの多さに忘れてしまったが。
仕事のストレスの腹いせを酔って家族に当たることが多かった。
息子がお手伝いしてラーメンのどんぶりを運んでくれていて、ちょっと足元がぐらついて汁が少しこぼれただけでボクサーのようなパンチを息子の顔に入れたときはびっくりした。
仕事をするようになり、お金を手にするようになったので、飲んだくれて朝帰りの日も多かった。
フィリピン系の飲み屋さんの女の人から家の留守電に「愛してるよ~早く来てね。」などの伝言が入ることも多かった頃だ。
後ろめたいことがあるのか、余計暴言を吐く。
長女の赤ちゃんの頃などほとんど旦那は家にいなかった気がする。
そして2年あき次女が生まれ、この頃はヨチヨチ歩きの次女がテレビの前を横切ったら邪魔だと払いのけたのを覚えている。
さすがに・・・子どもたちの身の危険も感じ、ここでわたしは一度逃げ出した。
ベビーカーにできるだけの着替えを詰め込み・・小学校一年生だった息子とまだ幼い長女を歩かせ、次女を背中におぶい・・・。ほとんどお金もないまま。帰ってくる前に逃げださなきゃと・・・。
もう夜だったので、事情を話し近所のビジネスホテルに一晩だけどこかに寝かせてくれるように頼んだ。
塩むすびをもってきてくれたのを覚えている。ありがたいことだ。
あしたになったら郵便局で学資保険を解約してそのお金でなんとかしよう・・・。市役所遠いけれど歩いて行かなくては・・・・などなど思いながらその日は眠りにつくことになったのだった。
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