神秘家エクリチュール【受肉篇1】
たしかに、神秘家は、主観的である。逆に、主観的でなければ、神秘家とは言えない。よって、客観的な尺度はあまり用いず、”素直に”表現していきたい。神学とは手を切ったエクリチュール、ということである。
さて、まずは、「受肉」について取り扱いたい。
キリスト神学では、受肉とは、神が人間と同一性を有すると考える概念――とかいうふうに、まずは言えるだろう。少なくとも、そう捉えている。
問題は、一体、即自的には、体験的には、肉体的には、何を意味するのか。どのような主観におけるクオリア