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(ほぼ)100年前の世界旅行 ナポリ(カプリ〜アマルフィ〜ソレント〜ポンペイ)1925/10/17-22

永遠の都・ローマに深い感銘を受けた曽祖父・金谷眞一。列車でスリにあい、一文無しで到着したローマ駅から今度はナポリへ出発です。
ちなみに現金は盗まれましたが旅券などは無事だったので、トーマスクックでトラベラーズチェックを換金し、旅は続きます。

ローマ〜ナポリ

1925年10月17日、ローマからナポリに行く列車で出発。途中から、以前フィレンツェで一緒のツアーだった英国人の老婦人や米国人の姉妹とも乗り合わせます。ローマで、この英国夫人が敗血症で足の手術を受けたと聞いていましたが、幸い回復して米国人の姉妹が親切に世話をしながら旅行を続けていたようです。この汽車では、隣のコンパートメントにいた朝熊海軍造兵大尉とも知り合います。

Wikipediaより

1923年から1年半、英国に造兵監督官(眞一は「兵器の買い付け」と記しています)として出張し、帰国する途中だったようです。のちに「魚雷設計の天才」(Wikipediaより)と言われた技術系の軍人です。大尉は「イタリア人は天才的発明心があるのに、資金がないので英国に横取りされている。電信、飛行機、空挺も全てイタリアの発明だ」と語る一方、契約と時間に関しては全く信用ならない、と眞一と意気投合したようです。そして「ムソルニー総理大臣は人傑者なり」とも。時代を感じます。

ナポリの宿泊は海に面したHotel Royal。3食付きで144ポンド(14円)でした。このホテルは今はないようです。

カプリ 「青の洞窟」

翌日まずはいつもの通りトーマスクックへ。カプリにいくツアーに参加します。ルチアまで歩き、小舟に乗り換え汽船に乗船。「青の洞窟」へは再度小舟に乗り換えて向かいます。水の青さに驚嘆し、「insectのためというが、全く信じられない」と書いています。あの青さは透明度の高い海水が白い海底に反射していると今は説明されていますが、100年前は洞窟内に何か特別な生き物がいると考えられていたのでしょうか。

旅は道連れ、2泊3日

このツアーで眞一は米国人のチャールズ・マーシュ一家と知り合い、彼らが雇ったガイド付きの車に同乗させてもらい一緒にソレントへ向かうことにしました。病気の次女のスイス療養のため、前年9月から夫人と長女次女がスイスに滞在し、夫君は米国で一人暮らし。10月に夫君が夫人と長女に合流して家族で旅行しながらイタリアで長女のための学校を選定しているところ、という説明があります。マーシュ氏は銅線製造会社 Standard Undergroud Cable Companyの重役でニューヨーク在住とのこと。電線は19世紀から急速に発展した電信電話事業、交通、兵器産業にも欠かせない基幹部品であり、そういう会社の重役という地位が、当時経済的にも相当恵まれていたことが想像できます。ちなみにこの会社の1897年の200ページの製品カタログが「文化的価値のある出版物」として復刻印刷されて今も入手できるのを見つけました。Google Booksでも見られます。技術的なことはわかりませんが100年以上前とは思えないすごい製品数で、眺めているだけで面白いです。そこにPresidentに次ぐ、“Vice President and General Manager“として“Joseph W. Marsh”の名を見つけました。同じ名前は1894年の米国特許取得者リストに電線などの特許取得者として掲載されていますし、カタログ自体、この人物が監修者のようです。もしかしたら、眞一と知り合ったマーシュ氏と縁のある人、父親や叔父などが同社の技術系トップで、家族二代にわたり同じ会社に務めていた?なんていう想像が膨らみます。

この家族と意気投合した眞一はここからソレント〜アマルフィ〜カバ・デ・ティレーニ〜ポンペイを巡る2泊3日旅行に同行しナポリに帰りました。費用はマーシュ氏と分担です。
滞在したホテルは、海やベスビオ山も見える、美しいところでした。

ソレントの Hotel Tramontano。1857年創業。今も”Imperial”を冠して営業中。

カバ・デ・ティレーニでは元貴族の邸宅だったHotel Londresに泊まりました。こちらは現存していないようです。

絵葉書もたくさん持ち帰っています。

Hotel dei Cappucciniからのアマルフィの眺め。
ポンペイ
競技場の遺跡の向こうにはベスビオ山。
「ニューシネマパラダイス」を思い出します。
やっぱりパスタ。

ポンペイでは、「昔と今、あまりにも違いがなくて驚く」「すでに鉛管の水道がある」などの感想とともに、「人糞だらけの今の町に比べ、道路は狭いが洗い出したように綺麗」と書いています。眞一はホテル業という仕事柄、清潔かどうか、を評価ポイントとして重視していたようです。誰も住んでいないポンペイが清潔なのはあたり前ですが、そのぐらいイタリアの衛生環境が気になっていたのでしょう。

ナポリ

10月20日ナポリに戻り、23日にブリンディジに移動するまでの数日間は、マーシュ一家や前述の米国人姉妹(ニューヨーク在住。エヴェレスト夫人、ピアース夫人)と一緒に行動していました。21日のマーシュ氏の誕生日には、姉妹に和服姿を見たいと言われたのに応じ、羽織袴で出かけ皆でお祝いしました。こんな風に友人と言える人たちと毎日行動を共にするのは6月からのこの旅行では(船旅中を除けば)ロンドン以来です。特にマーシュ一家が初対面の東洋人を受け入れて一緒に2泊3日の旅行をしたことには驚きます。眞一も嬉しかったことでしょう。

勝負服。日光金谷ホテルにて。

22日はマーシュ氏が家族を残し単身米国へ帰る日です。エヴェレスト夫人たちも同じ船で出発するのを、夫人達と見送りに行きました。「早く皆で一緒に暮らしたい」と呟き涙を浮かべるマーシュ夫人と長女に付き添って、帰りはブラブラと小店を冷やかしながらホテルに戻りました。なかなか紳士的な振る舞いです。一方、すでにブリンディジ〜アレクサンドリアの「世界一高い」船賃を、悔しがりつつ歯を食いしばって支払ったせいか、トーマスクックの厚意でカプリツアーがタダになった!と喜んでいるのが微笑ましいです。

翌10月23日、ローマに向けて出発するマーシュ夫人と長女を見送りました。いよいよ夜には自分も欧州に別れをつげてブリンディジ行きの列車で出発です。旅の友らを見送り、誰にも見送られない眞一の旅は、エジプトへ続きます。

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