見出し画像

金谷真一のこと

曽祖父は、現在の栃木県日光市で、父・金谷善一郎と母・はなの間に1879年(明治12)に生まれました。卯年。3歳年下の正造、9歳年下の妹の多満(たま)がいます。父善一郎は東照宮楽人でした。

東照宮の楽人とは、1637年(寛永14年)三代将軍徳川家光の命により日光東照宮に設置された、各種行事の際に雅楽を演奏する専門職で、徳川幕府に大きな影響力を持っていた僧・天海大僧正ゆかりの芦名一族を始め東照宮社家を含む20家が任命されたことに始まります。そのうちの一人が金谷外記忠雄(かなや げき ただお)で、その後明治22年(1889)に真一の父・善一郎がその職を辞するまで、金谷家は9代にわたり楽人(伶人とも)でありました。

大政奉還から明治維新に至る一連の動きは当然東照宮にも影響し、武士であった金谷家も困窮。そんな1870年(明治3)、泊まるところがなく困っていた一人の米国人(ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士)を自宅に泊めた際「これから日光には外国人用の宿泊施設が必要」と勧められ、善一郎は1873年(明治6)に、東照宮から拝領していた屋敷で「金谷カッテージイン」を開業します。その後1878年(明治11)年に英国人旅行家のイザベラ・バードが宿泊し、当時の家屋や家族の様子を「日本奥地紀行」(Unbeaten Trucks in Japan, 1885 John Murray)に記したことから広く知られるようになりました。ちなみにバードは善一郎を次のように紹介しています。

Kanaya leads the discords at the Shinto Shrines; but his duties are few, and he is chiefly occupied in perpetually embelishing his house and garden.

Isabella L. Bird, 1888 “Unbeaten Trucks in Japan” London,  John Murray  
1888年版。竹に月、ですが、西洋人はこれを太陽と思ったとも

えらく暇そうな描写を見ると、もしかしたらこのころは、外国人を自宅に泊めたことで東照宮の勘気を被り、出仕していなかったのかもしれません。1889年(明治22)に善一郎は東照宮を辞し宿泊業に専念。その後1893年(明治26)、建築途中で放置されていたホテルを買い取り移転し、屋号を「日光金谷ホテル」と改めます。(金谷ホテル開業とそれに続く善一郎苦難の時代の経緯は、常磐新平「森と湖の館」(1993年 潮出版社)を始め、幾つかの書物に詳しいのでどうぞご覧ください。)

当時の顧客のほとんどは外国人でしたが善一郎は英語を話せなかったため、その重要性を痛感していたのでしょう。長男真一を東京築地の立教学校に入れ、英語を学ばせました。しかし日光には外国人向けのホテルが増え、競争は激化していきます。真一は父の苦労を知り、1896年(明治29)学業を切り上げ18歳でホテル経営に参加しました。父子はホテルの何から何までを切り盛りしながらその設備を拡充し、地域の発展にも努め、次第に金谷ホテルは良い顧客を得てその地位を確かなものにしていきました。真一が父の隠居を受けて家督を相続したのは1917年(大正6)、38歳の時です。日光金谷ホテルは隆盛の時を迎えます。

金谷真一。名刺の裏(表?)は自分のポートレートでした

その後戦争をはじめとするいろいろな節目がありました。日光金谷ホテルは真一の娘婿・正夫、その息子である筆者の父へと受け継がれましたが、2005年には経営から退き、2016年に東武鉄道傘下に入りました。そして2023年、「日本で現存最古の西洋式ホテル」として150周年という節目を迎えられたこと、大変感慨深く、また真一も喜んでいると思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?