幼少期

記憶にある頃にはもう父は姉を殴ってたし、それをただただ見てる母がいた。逆に言えばそれしか覚えてない。ひどい怒鳴り声だったし、電話でも父親は毎日誰かを怒ってた。一緒に遊んだ覚えもないし、なんとなくはなしちゃだめだっておもった。でも好かれたいとも思ってた。愛されたいが適切な表現かもしれない。

幼稚園卒園の時には、もうある程度わかってた、普通の家とは違うこと、たぶん父親はしたらだめなことをやっていること。母親はこの時から精神が不安定だった。それは自分の記憶の中の話で実はずっと前から精神的に弱い人で抗不安薬を飲まなきゃいけない人だった。ご飯は作れない、動けない、泣いてる、叫んでる、過呼吸になってる母親がずっとずっと家にいた。そんな母親でも外に出れば別人のように元気だった。外面がよかった。

小学校入った時にはもう暴力と暴言の毎日で
学歴主義の父親は、姉や私を怒り続けた。
小1から小3の間は家では母親を支えつつ、父親の機嫌をとるような毎日だった。学校ではちょっとだけぐれた。親は帰ってこなかったし夜までうろうろしてた。

小学4年生
ここが一番しんどかった。味方だと思ってたお姉ちゃんがいきなりいなくなった。二分の一成人式で自分のこと調べる際に自分が第三子だと知った。お兄ちゃんがいた。お姉ちゃんとは父親が違った。他にも色々最悪な知ったことはあったけど、社会的に言えない。
苦しかった、毎日死にたかった
こんな自分いちゃいけないって、産まなければよかったとか嫌いとか毎日母親から言われてたから尚更だった。

小学5.6も同じように育った、変わったところと言えばもっと親に気を使うようになった、お姉ちゃんの代わりに殴られる回数が増えた。これでも周りの大人は気づいてくれなかった。
ただ自分も隠してたし、気付けれなかったっていうのが正解かもしれない。
ただここらへんで自分は親みたいになっちゃいけないって思ってとても性格を直そうとした。
模範みたいな性格になろうとした。
普通がわからないからこそ完璧を常に目指した。
小学生時代覚えてるのは家のことばっかりで
楽しかったことは学校のことはほぼ記憶にない。

中学生の時も先生にいおうとした、てか言った。
そんなはずないって冗談でしょって言われた、
もういいやって思った。

塾の先生にご飯食べてないこととか、手の震えがきっとばれてた。いくたびに聞かれた。何回も相談したいことある?ってけどいえるわけがなかった。
自分が虐待受けてるなんていえない。
みんなと同じ尺度で自分を見て欲しかった。
家のせいなんて言われたくなかったし、可哀想とか嫌だった。いまばれたらじゃあ今まで頑張ってきた意味は?って

けどずっとずっとしんどくて、喧嘩見たり、殴られると反射的に笑うようになってた。
泣くなって昔怒られたせいで人の前で泣けなくなってた。泣く時は決まって夜中のクローゼットの中
休校の期間自分は中1にかけてから中2
ほぼ監禁みたいな生活だった。この頃からodするようになった。中2なんか毎日してたと思う。
もう頭は回らなかったし、薬を飲んでねて朝起きて学校に行ってた。精神的にもおかしかったし、
身体もしんどかったのに学校に行ってたのは
家にいれないのと、誰か気づいてくれると思ったから。仲良い先生たちはたくさんいたし、話そうと思えば話せたんだろうなと今思う。
結局だれも助けてくれなかった、

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