口付け

 どうしようもなく、いとおしく、きらきらしていたの。
 楽しかったからいいの。聖人としての気高さも何も貴方にはないけれど、それでも良かったと思えるものがあったから。
 美味しいを一緒に考えてくれた貴方。当然を変えた貴方。あたしが世間知らずのちっぽけな少女だと教えてくれた貴方。
 …踊りしか知らないあたしが。ヨカナーンにしか狂わないあたしが、料理だなんてして。服まで変えて、貴方に会うのだから…。貴方に変にされてしまったのね、あたし。化け物の皮を剥がされたのに、結局化け物にされず終わってしまった。
 それでもね、楽しかったからいいの。それが全部良かったわ。
 そんな貴方は生きたらいい。

 ヨカナーンは気高い。生きるも死ぬ美しい。
 だから、深傷を負った貴方に戸惑った。だって、ヨカナーンは強いはずでしょう。彼は私と口付けるものでしょう。治すだとかそんな話はあたしと彼には無いはずで。あたしに人の傷を癒す力なんてなくたって、ヨカナーンは大丈夫で、ヨカナーンの首は素晴らしい。
 けれど普遍的な貴方は、美しくはない。生きたいと命乞いをする。だから貴方はヨカナーンではない。決して気高くない貴方。あたしの狂気に触れてくれない貴方の首はいらない。
 だからこそと言うのかしら。たった少しの情が、あたしを突き動かし、貴方を生かした。

 これはきっと、なんでもない話になってしまうのでしょうね。
 こんなにも愛おしいと思ったのに。

 穏やかな夕暮れに「また明日」の声を思い出していた。欲に溺れたあたしと普通な貴方に「また」があるのかしら、と。運命なんてなかった。この情熱は知らないものだった。唇を求めてしまう、こんなあたしの生き方では、すれ違うことしかなく、傍には居続けられないけれど。
 …その声が、あたしを勘違いさせる。ああ、口づけをしたかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?