人新世という言葉を否決したからといってその現実が消えることはない。
先ほど、日経新聞に掲載されていた、「地質時代「人新世」案、学会否決 社会で浸透も議論に幕」という記事を読んだ。
ということなのだが、それはつまり、地質学者の世界において否決された、ということである。じつをいうと、人新世をめぐっては、たとえば地球システム科学者によっても提起されていて、2018年には、「ホットハウスアース」仮説を提唱する論文が出された。日本語訳も出ているが、その冒頭にはこう書かれている。
つまり、温暖化の観点から、今が人新世に入りつつあるということを主張する議論が存在する。これに対し、今回の否決は地質学においてである。それも、その開始時を1950年にするということなのだが、日経の記事にはこう書かれている。
この否決に対しては、投票に不透明なことがあったという批判もあり、地質学者から批判の声明も出され、こういう記事も出ている。
さらにティモシー・モートンも、「人新世を拒絶するのは間違いだ」というエッセーを書いている。
それでも地質学では、「1950年を人新世の開始時にする」という提案が否決された、ということであるらしい。実際、ワーキンググループのホームページにも、
to reject the proposal for an Anthropocene Epoch as a formal unit of the Geologic Time Scale is approved. (人新世のエポックを地質学的な時間スケールの公式のユニットとして提案するのを否決することが認められた)。
と書かれていて、しかもそれが「Legacy site」になっているので、地質学での議論は終わったということなのだろう。
ただ、産業革命を人新世と関連させる議論や、西洋諸国の植民地支配にその要因を求める議論もあって、そういった議論がすべて地質学者によって否定されたわけではない。また、くわしくは私が最近訳したチャクラバルティの「一つの惑星、多数の世界」や、前に書いた「人間以後の哲学」などで論じたのだが、自然科学での議論と人文学の議論の間にはズレがあり、私のごとき人文学の研究者にとって重要なのは、人間が生きているところをどう考え、言語化するか、さらにそこで人間であるとは何を意味するかといったこと考えることであって、その人文学的・哲学的な問いを吟味する上で、人新世の仮説はとても興味深い、ということである。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000343879
カントもリスボン地震について論文を書いたのだが、それもやはり、彼のいう超越論的なものや「物自体」をめぐる思考との関連で試みられたと考えることもできるだろう。さらにいうと、なぜ地質学者たちは1950年代にその開始時を定めようとしたか、そこに何か無理があったのではないかと考えることもできる。
実際私は2022年にベルリンの「世界文化の家」で地質学者と人文科学者とアーティストが一堂に集まって人新世をめぐって議論する場に観客として参加したが、人新世をどう考えるかをめぐって、科学者と文系学者のあいだに溝があることを感じたし、そこにいた地理学者のNigel Clarkにいろいろと聞いたところ、「自然科学者は、人新世を人間にかかわることとして考えていない」と批判していた。そういうこともあって、私自身、2022年夏以降、人新世に関する議論に気を取られぬよう注意するようになり、研究の方向性を意識してシフトチェンジした。
否決後も、ヤン・ザラシーヴィッチはなおも次のように主張しているし、それを撤回しないので、「議論に幕」という日経新聞の記事の見解は誤りであると指摘しておこう。
すなわち彼は、
といい、言葉としては定まらなかったがそれに先立つところに生じる現実における変化は否定し難いもので、だからこの変化(planetary change)には人間たちは取り組まなければならないと主張する。
ちなみにこの数年気になっているのは、technosphereをめぐる議論である。これも人新世関連の議論で出てきている。建築やダムや高速道路をひっくるめてtechnosphereととらえ、そこに人間が生きてしまっていることをどう考えるかという問いがそこから出てくるのだろうが、チャクラバルティなどもそこに着目し、著書を書いている。
(付記)
どことなく自分は人新世が統一見解として科学者のあいだに受け入れられていると勝手に想像していたのですが、地質学者が議論する様子をベルリンで目の当たりにして、科学というのも客観的ではなく、その見解は科学者が置かれた立場や利害関係に左右されるんだなと思うようになりました。それでもさすがに否決されることはないだろうと思っていたのですが、でももしかしたら否決されたほうがよかったのかもしれません。議論はこれから本格化するでしょうし、学部生や修士の学生はこれをそれこそ科学社会学や人類学のテーマにして勉強したらよいのかとも思います。
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