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人新世という言葉を否決したからといってその現実が消えることはない。

先ほど、日経新聞に掲載されていた、「地質時代「人新世」案、学会否決 社会で浸透も議論に幕」という記事を読んだ。

国際学会「国際地質科学連合(IUGS)」は20世紀半ばからの地質学上の時代区分を、人類活動が地球環境に大きな影響を及ぼす「人新世(じんしんせい)」とする案を正式に否決した。

ということなのだが、それはつまり、地質学者の世界において否決された、ということである。じつをいうと、人新世をめぐっては、たとえば地球システム科学者によっても提起されていて、2018年には、「ホットハウスアース」仮説を提唱する論文が出された。日本語訳も出ているが、その冒頭にはこう書かれている。

我々は自己強化型のフィードバックが地球システムを地球規模の変化につながる閾値 へと向かわせる危険性について探求する。その閾値を一旦超えてしまうと、温度上昇に 対する気候の安定化が妨げられ、温室効果ガスの排出を抑制したとしても、継続的な温暖 化が引き起こされ得る。この地球の進路をホットハウス・アースの経路と呼ぶ。もしそうなれば、地球平均気温は過去120万年年のどの間氷期よりもずっと 高くなり、海水準は過去1万2千年の完新世のどの時代よりも高くなるだろう。我々はそのような閾値の存在を示唆する証拠を吟味し、それがどこに存在するか調べる。もし閾値を超えるならば、将来の地球の道筋において、生態系や社会そして経済に深刻なダメージがもたらされるだろう。閾値を超えることを回避して、現在の間氷期のような生存可能な地球環境を安定に維持するためには人類のの協力的行動が必要である。そのような行動は、生物圏、気候、社会など地球システム全体の管理を伴い、世界経済の脱炭素化、生物圏炭素吸収源の増強、生活スタイルの変化、技術革新、新しい管理協定、社会的価値観の転換を含む。

人新世における地球システムの道筋

つまり、温暖化の観点から、今が人新世に入りつつあるということを主張する議論が存在する。これに対し、今回の否決は地質学においてである。それも、その開始時を1950年にするということなのだが、日経の記事にはこう書かれている。

人新世の案は2023年にIUGSの下部組織の作業部会が提案した。世界人口の爆発的な増加に伴い人類活動の影響が大きくなった1950年ごろを人新世の開始時期にすべきだとした。
この時期にできた各地の地層には核実験で放出されたプルトニウムが含まれ、時代の始まりを示す化学的な指標になるとしていた。IUGSは声明で、農耕の開始や産業革命の時期など20世紀半ばよりも前から人類活動が地球環境に影響を与えていたことや、他の地質年代に比べて期間が短すぎるとの批判が内部の専門家からあったと明らかにした。

この否決に対しては、投票に不透明なことがあったという批判もあり、地質学者から批判の声明も出され、こういう記事も出ている。

さらにティモシー・モートンも、「人新世を拒絶するのは間違いだ」というエッセーを書いている。

それでも地質学では、「1950年を人新世の開始時にする」という提案が否決された、ということであるらしい。実際、ワーキンググループのホームページにも、

to reject the proposal for an Anthropocene Epoch as a formal unit of the Geologic Time Scale is approved. (人新世のエポックを地質学的な時間スケールの公式のユニットとして提案するのを否決することが認められた)。

と書かれていて、しかもそれが「Legacy site」になっているので、地質学での議論は終わったということなのだろう。

ただ、産業革命を人新世と関連させる議論や、西洋諸国の植民地支配にその要因を求める議論もあって、そういった議論がすべて地質学者によって否定されたわけではない。また、くわしくは私が最近訳したチャクラバルティの「一つの惑星、多数の世界」や、前に書いた「人間以後の哲学」などで論じたのだが、自然科学での議論と人文学の議論の間にはズレがあり、私のごとき人文学の研究者にとって重要なのは、人間が生きているところをどう考え、言語化するか、さらにそこで人間であるとは何を意味するかといったこと考えることであって、その人文学的・哲学的な問いを吟味する上で、人新世の仮説はとても興味深い、ということである。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000343879


カントもリスボン地震について論文を書いたのだが、それもやはり、彼のいう超越論的なものや「物自体」をめぐる思考との関連で試みられたと考えることもできるだろう。さらにいうと、なぜ地質学者たちは1950年代にその開始時を定めようとしたか、そこに何か無理があったのではないかと考えることもできる。

実際私は2022年にベルリンの「世界文化の家」で地質学者と人文科学者とアーティストが一堂に集まって人新世をめぐって議論する場に観客として参加したが、人新世をどう考えるかをめぐって、科学者と文系学者のあいだに溝があることを感じたし、そこにいた地理学者のNigel Clarkにいろいろと聞いたところ、「自然科学者は、人新世を人間にかかわることとして考えていない」と批判していた。そういうこともあって、私自身、2022年夏以降、人新世に関する議論に気を取られぬよう注意するようになり、研究の方向性を意識してシフトチェンジした。

否決後も、ヤン・ザラシーヴィッチはなおも次のように主張しているし、それを撤回しないので、「議論に幕」という日経新聞の記事の見解は誤りであると指摘しておこう。

すなわち彼は、

There’s so much evidence now that the Earth’s operating system is different from these thousands of years of relative stability of the Earth. Climate is a major driver… Those changes are geology … The repercussions will carry on for many thousands of years, even millions of years. And the biological repercussions, the scrambling of the Earth’s biology through species invasion and extinctions, that has permanently altered the course of biological history.

といい、言葉としては定まらなかったがそれに先立つところに生じる現実における変化は否定し難いもので、だからこの変化(planetary change)には人間たちは取り組まなければならないと主張する。


ちなみにこの数年気になっているのは、technosphereをめぐる議論である。これも人新世関連の議論で出てきている。建築やダムや高速道路をひっくるめてtechnosphereととらえ、そこに人間が生きてしまっていることをどう考えるかという問いがそこから出てくるのだろうが、チャクラバルティなどもそこに着目し、著書を書いている。

(付記)

どことなく自分は人新世が統一見解として科学者のあいだに受け入れられていると勝手に想像していたのですが、地質学者が議論する様子をベルリンで目の当たりにして、科学というのも客観的ではなく、その見解は科学者が置かれた立場や利害関係に左右されるんだなと思うようになりました。それでもさすがに否決されることはないだろうと思っていたのですが、でももしかしたら否決されたほうがよかったのかもしれません。議論はこれから本格化するでしょうし、学部生や修士の学生はこれをそれこそ科学社会学や人類学のテーマにして勉強したらよいのかとも思います。

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