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人間そんなに単純じゃない

平日が始まった。

今日は朝から動き続けて、今、ようやく落ち着いてきている。

静かに何かをすることは大事

でも、それだけでは満足できない自分もいる。

表象についてもっと知りたい、そのためには相当意識を深くしないと
すぐに切り離されてしまう。

味は低次元の意識という解釈

実物に近い、目の前にあるから、それを体感できるから、自分が求めていることのヒントになっている。

近くにできたカレー屋。いくと不思議な気持ちになる。

数学的帰納法の授業を2回にわたって、

で、そこに生徒の思考は見えたのか?

何かが違和感。

張り詰めすぎている。試験会場みたい。

そうなりがちなのは注意すること?

昔よりは目線に吸い込まれそうな気がしている。

知識の伝承。

ずっと思っている。話し合いするなら、まず語彙がないと。

ただ、教科書の内容を教えていてもしょうがない。つまらない。

そこから見える思考を捕まえて、言語化して、記号とする。

大学への数学の後ろの問題を解くための思考法が見えたとき、どんな世界が待っているのだろう。

まだ、今やっていることは静脈。黒い血。

求めているのは鮮血。

今、学校で起こっていることは世間で見ている以上に、さまざまなことが起こっている。それこそ学力とか言っている場合じゃないこともある。

でも、学校は存在し続ける。

人は精神的に成長したいと思い、そのためには他者が必要だと無意識が理解しているから、だから、行きたくないと思っていてもとりあえずいく。何かを求めて。それで違う場所が見つかればそれだっていい。一つの場所に収まっていることなんてない。

場所なんて、集合意識が勝手に作っているもの

じゃあ、なんのために必要なの?

極論なくてもいい。

集まる場所があるなら

好きな人同士で会っていればいい?

嫌いな人とは会わなくていい?

そもそも何で好き嫌いを決めているの?

自分だよ。

学びは他者がいて生じる。

嫌いと認識することも学び。

外にエネルギーをただ漏らしているのか

自分に向けるものはないのか

きっと、今の学びはあまりにもフィクションに写っているのかもしれない。

教科はみんなで語り合うためのツール


xと3tの収束の仕方って違うから一概に同じっていえるのか?
xは実数のことだから、結局は3tにしてもいいのでは?
すごい。こういうやりとり
教師とか黒板は生徒にとって鏡になる。
頭の中の世界になる。

今日は授業変更で教室が空いていなくて、滅多に使わない部屋でやることに。

少人数で。

「こんな感じの部屋で、これからはやっていきたいんだよね」

「どういうことですか?」

「寺子屋みたいなところで数学をやっていたい」

「え?キャバクラですか?』


時間が会って暇だから

みんなで集まって、三角関数の公式を復元。

一人が頑張って解いている。

それをみんなであーだ、コーダいってる。

公式を覚えることや復元方法を経験することは学ぶこと

そこから送られる刺激「メッセージ」は何か?

「メッセージ」は外的要因で「教える」の刺激

私は実際、彼に何を贈り続けていたのだろうか?

私自身は贈ることはできない、送るだけ

送ることで外から何かが贈られる

それが教える。

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