一句評 小野寺里穂
んからはじまる歌も句もみたことね~とか思っています。西条うららです。よろしくお願いします。
ん、の後に空白を入れないことの効果を分析した後に全体の話をしようと思います。
句の中で流れる時間
神戸大の先輩です。大好きです。ほんとうにかっこいいと常々思っています。この歌は本来一瞬であるはずの動作が1首の秒数まで引き伸ばされ、その引き伸ばした時間のなかでねむっていると。限りなくスローモーションな映像が脳内に浮かびます。(詩歌はひとつの中で嘘をつけると思うんですけど、この一首はきちんと嘘をついていて好感が持てます。短歌の手触りがあるなって思います。)
の短歌を発話する前にこの内容を思ったとする。発話し終われば、動物が入ってくる。初句の「瞬間」とはこの短歌1首の秒数である、と伊舎堂仁さんが評してました。
小野寺さんの歌に戻ると
んはじめて痛むとそこもわたしか
上2つは短歌の中に存在する時間を使ってて、小野寺さんの句も空白がないことで「ん」の痛みを感じる瞬間から、そこもわたしか、と納得するまでの秒数が限りなくゼロ秒で、そこにリアルがあります。句の中にある秒数をそのまま句の面白さに転用しているところがすごく良かったです。
わたしの存在が痛みそのものというか、痛みを感じることでわたし自身が立ち上がるのならば人は体や心を傷つけながら人として成熟していくでしょう。その中にあるここもわたしか、というとてもピュアな一部分を取り出してくれたような嬉しさもある。そんな句でした。インパクトもあってとても好きです。ありがとうございました。
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