日本サッカーの歴史(1)

突然ですが、皆さんが思う日本サッカーにおける歴史と言えば何が思い浮かびますか?

メキシコオリンピックで銅メダルを獲得したことでしょうか?
Jリーグが発足し、日本にプロサッカーリーグが誕生したことしょうか?
ブラジル代表を破った1996年アトランタ五輪のマイアミの奇跡でしょうか?
自力で予選を通過し、初めて出場した1998年フランスワールドカップでしょうか?
もちろん、昨年行われたカタールW杯で強豪国を打ち破った日本代表チームも歴史に名を刻んだと思います。

カタールワールドカップ「三笘の1mm」


思うところは人それぞれで、歴史の定義も変わってきます。
今回はそんな日本サッカーの歴史を振り返ってみたいと思います。


日本サッカーの起源

日本へのサッカーの伝来と起源については様々な説がありますが、JFAの公式ページによると、1873年にイギリス海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラスが海軍兵学校でサッカーを広め、この時に日本における最初のサッカーの試合が行われたとされています。
この当時の日本は軍事力強化のため、体育教育に力を入れていました。1879年には文部省により、体育教育に特化した教員を育成する機関として「体操伝習所」が設立されます。
この体操伝習所では欧米的な体操教育を伝授すべく、アメリカから医学士リーランドを招聘し、日本人の体形に合わせた体育法を伝授していくことになります。ここで伝授された様々なスポーツのうちの1つがサッカーでした。
こうしてサッカーというスポーツはリーランドの指導の基、体育伝習所を通じて、各師範学校(教員を育成する機関)に伝わりました。やがて伝習所や師範学校の卒業生たちは体育教員として、全国の中学校でサッカーを広めていくことになります。
また、リーランドの通訳を担当していた坪井玄道は、リーランドの教えを基に1885年に児童向けの遊戯指導書である「戸外遊戯法」を出版しました。これが日本人が書いた初めてサッカーについて記述された書物とされています。戸外遊戯法の出版、それに影響を受けた教員が次々と書籍を発行していき、サッカーは学問および児童向けの遊びとして全国に広まっていきます。

坪井玄道

日本最初のサッカーチーム設立

前述ように、サッカーは学生スポーツとして周知されていきました。体操伝習所は東京高等師範学校(東京高師)の付属部門となり、1896年、フートボール部が設立され、坪井玄道が初代部長に就任しました。当時のフートボール部はサッカーとラグビーの住み分けがなく、正式なサッカーチームではありませんでした。
1902年、坪井の教え子でもある中村覚之助の手によって現代サッカーのルールに則った「ア式蹴球部」が東京高師に設立されました。これが日本で最古のサッカーチームと言われています。翌1903年に中村はサッカー専門の書籍としては日本最古となる「アッソシェーション・フットボール」を出版しています。
ちなみに、東京高師のア式蹴球部は現在の筑波大学サッカー部として現存しており、今もなお有力なサッカープレイヤーを排出し続けています。カタール大会で一躍有名になった三笘薫選手も筑波大学の出身ですね。

最初の国際試合とその影響

1917年、この東京高師のア式蹴球部は第三回極東選手権のサッカー競技に日本代表チームとして出場します。これがサッカー日本代表における初の国際試合でした。ちなみにこの大会でフィリピン代表に2-15で敗れていますが、これは現在までの日本代表の最大失点試合となっています。
ア式蹴球部設立に加えて、この初の国際試合は日本国内でも大きな話題を呼び、各地域に学生サッカーチームが創設されることになります。
特に御影師範学校を中心とする近畿地方ではサッカーの普及が早く、関西地区では1918年に「第一回日本フートボール優勝大会」が開催されました。これは後に全国高校サッカー選手権大会の始祖となる大会でした。

大会が行われた豊中グラウンド

この大会はサッカーとラグビーの混合大会であったり、中等学校(現在における高校)のみを対象としたものではなく大学や旧制高校も参加が認められている等、現在の高校サッカー選手権とは異なる要素も多くありました。
当時のフットボールはラグビー・フートボールとアソシエーション・フートボール(サッカー)の2つに別れており、それを統合した形でフートボール優勝大会という形で開催されました。実はこの大会の開催を持ちかけたのは、日本におけるラグビーの発展に大きく貢献した人物である杉本貞一でした。ラグビーの普及の一環として始めたため、サッカーはオマケだったらしいです。
日本大会という名前でスタートしたこの大会ですが、参加校は関西地区のみだったため、厳密には全国大会ではありませんでした(元々関東の慶応中等学校を招聘予定だったが、辞退されたらしいです)。同時期には東海や関東でもサッカー大会が行われていたそうです。
日本フートボール優勝大会が全国大会として開催されたのは第9回大会で、「全国中等学校蹴球選手権大会」に名前を変更した1926年のことでした。

勘違いから生まれたJFAの設立

学生スポーツとしてサッカー人気が高まる中、1919年にはイングランド(イギリス)のフットボールアソシエーション(FA)から純銀製のトロフィーが寄与されました。これは日本蹴球協会の設立を記念して、国内のカップ戦タイトルとして贈呈されるトロフィーとして贈られたものです。しかし、当時の日本にはサッカー協会など存在せず、FA側の勘違いで送られたものだったらしいのです。どうやら先の日本フートボール優勝大会を含む、各地でサッカーの大会が行われたことにより、日本にもサッカー協会が設立されたと勘違いして伝わってしまったとか。現代の情報社会ではあり得ない間違いですね。
受け取ったトロフィーですが、当時の同盟国であるイギリスからわざわざ贈呈されたものを送り返すわけにもいかず、サッカー人気も高まっている事などから、日本国内のサッカーを統治する組織を作ろうという流れになります。こうしてFAのトロフィーの寄与から2年後の1921年、現在のJFAの母体となる大日本蹴球協會が誕生しました。

FAシルバーカップ

大日本蹴球協會の設立と同年、全国のチームを対象としたア式蹴球全國優勝競技會が開催され、優勝チームにはFAから送られたトロフィーが与えられることになりました。この大会は現在の天皇杯(全日本サッカー選手権大会)であり、全国のチームを対象とした初のサッカーの全国大会でした(前述のように、第一回日本フートボール優勝大会は関西地域限定だったため)。

ここまでは日本へのサッカーの伝来と、サッカー協会の設立までの歴史を振り返ってみました。以外に時代背景に絡んだ出来事も多く、調べていて勉強になりました。
次回は1930年代以降、日本代表の国際大会での活躍を振り返っていきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?