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不潔な平安京を救ったのは「桶」だった!

「平安時代はとんでもなく不潔だった」

これまでさんざんに書いてきたが、疑問に持たれた方もいるかもしれない。
はるか後代の徳川時代。
お江戸を始め諸国の大都市では、住民の排泄物は「下肥」として近隣の農村に運び出されていた。糞便は肥料として配収されるため、江戸市中は清潔が保たれた。なぜ平安京の民衆は糞便をそのまま放置するなど、不潔でなおかつ「もったいない真似」をしたのかと。

それは「技術が追い付かなかった」からである。
もちろん、当時の平安京周辺の農村においても、人間の糞便を田畑に入れれば「肥料」になり、収穫量が増すことは経験的に知られていたことだろう。だが、田畑に施すとなれば当然、大小便を溜めた上で運び出さなければならない。当時の日本は「運び出す技術」が決定的に欠けていた。

技術が欠けていたといっても、バキュームカーが無いという問題ではない。それ以前、牛馬や人力でこなしていたではないか…
問題はもっと「根本的」なことなのだ。

「光る君へ」を毎回見ている人ならば、作家デビュー前の紫式部=まひろが御殿の掃除をしている場面も目に留まっただろう。床磨き掃除となれば、基本は雑巾がけ。雑巾がけには雑巾と共に水を湛えた容器が絶対不可欠。
現在ならプラスチック製のバケツ
ひと昔前ならば金属製のバケツ

そして1000年も前を再現したテレビ画面でまひろが用いているのは「桶」だ。
だが昭和中期まで使われていた桶のように、カーブ上に割った木片をタガで締め上げた「結桶」ではない。薄く剥いだ板を丸めて原型を作り、底板を取り付けた「曲げ物」。現在も高級な弁当箱としておなじみのものだ。

平安時代に一般的だった曲げ物の器

そもそも人間の大小便の混合物のような「粘り気と重量のある液体」を運ぶには、頑丈な防水容器が必要になる。平安時代当時の日本で「防水性の器」といえば「土器の壺」「金属製の鍋釜」そして「曲げ物の桶」という事になるだろう。だが…

・土器の壺は重くて壊れやすい
・曲げ物の桶は軽いが強度が無く、壊れやすい
・金属製の器は高価、とてもそんな「不浄な役割」に使えない

いずれも人間の大小便をおさめて運搬する用途には不適当。そもそも曲げ物の桶で水を汲むことすら、本来の強度スレスレの行為なのだ。

だからこそ都市部に山積する排泄物は都人の鼻をひん曲げながら、路地裏でジワジワ腐食風化するに任せられていた。

だが鎌倉時代から室町時代にかけ、ようやく状況が一変する。
それまで田畑は「単作」だった。一年で1種類の作物しか栽培できなかった。
だが、稲は初夏に田植えして秋に刈り取る作物
晩秋から春の稲田はニート状態。
麦は秋に種を蒔いて冬を越し、翌年の晩秋から初夏に収穫する作物
夏から秋の稲田はニート状態。

ならば同じ耕作地で初夏に田植えして稲を育て、稲を刈って水を抜いた上で耕して麦を蒔き冬を越す。春に成長して稔る麦を収穫し、また耕して水を張り稲を植える…こうすれば同じ土地で2倍の収穫が

同一の耕作地で一年に二種類の作物を栽培する農法を「二毛作」とよぶ。

映画「七人の侍」のラストシーンでおなじみの光景だ。
季節は初夏。麦の収穫を狙って野武士が襲ってくる。
だから野武士が来る前に麦を刈り終え、水を引き込んで「堀」にする。
野武士を退治終えたら、田植えをしてハッピーエンド

だが同一の耕作地で年に2回収穫するとなれば、手間も、そして肥料も二倍となる。それまでの日本で使われていた肥やしと言えば、山野の青草を刈り取って田に鋤きこむ「刈敷」か草木灰、あるいは家畜の糞だった。草木灰は産出量に限りがあり、刈敷は刈って田に鋤きこむ手間がかかる。なにより即効性ではない。
手軽な肥料の問題は頭打ちだった。

そんな折の鎌倉、室町期。
中国から新たな「容器」が伝来する。
側板を竹のタガで締め上げて概形を作り、底板を取り付けた木製の容器。それまであった「曲げ物の桶」と対比させて「結い桶」と呼ぶ。
現在の木桶とほぼ変わらない。

江戸時代の桶屋

頑丈で水漏れせず、土器のように割れず、木製だからある程度は軽い。
水や酒類はもとより、「重量と粘りのある液体」である下肥も安全に運ぶことができる。まさに時代の救世主だった。

こうして農民は「自家製」の下肥はもとより、都市部より排出される下肥も回収して自身の畑に散布し、作物を肥やしていく。一方で都市部からは定期的に汚物が回収される。
室町時代の大永5年(1525年)に描かれた「洛中洛外図」には、タガつきの桶の中身を田畑に振り撒く農民が描かれている。
中身は言わずと知れた下肥だろう。


室町時代の「洛中洛外図」より。タガつき桶から肥やしをほどこす農民


同時期の世界各国の都市は、いずれも程度の差こそあれ排泄物による汚染問題を抱えていた。水洗便所の普及以前にその衛生問題を解決できていたのは、東アジア、中国か朝鮮、日本くらいであろうか。

重ねて言うが、下肥回収システムが整ったのはタガで絞めた桶が普及した室町期以降だった。

平安時代、清少納言のみやびの世界は、一歩街路に繰り出せばドロドロだったのだ…

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