色慾食堂inゆとりごっち 試作準備


去年の今頃はあのコンビニも飲食店も身近にない離島で和食を学びながら食と向き合っていた。
島から出てきて東京に住んで早9ヶ月。

料理のことを考えると必ずあの島での思い出を振り返る。記憶は薄れど経験や考え方に大きく影響しているなと感じる。本当にあの島で今の年齢で、タイミングで食への理解を育めたことはよかったなと思う。

東京で出会った知り合いがゆとりごっちというお祭りをやるらしく、ありがたいことにそこに出店してみないかと声をかけて頂いた。
ゆとりごっちという聞きなれない単語。
ゆとり+ごっち(方言で独り言つぶやきのようなもの)の造語らしい。人々のゆとりの中に生まれる感覚や表現って素敵だよねってことかなと僕は解釈した。
そんなゆとりごっちが集まるお祭りをやりたい、彼曰く色慾食堂はゆとりごっちな存在らしい。光栄なことだ

出店が決まり、今一度自分の中の考えを整理することにした。自分とは、他の人と比べて感じる自分て変だなぁと感じる部分はどんな経験から生まれたのか、自分にとってのゆとりとは、色慾とは、、、、

考えた結果、自分のゆとりは”人間は思ったよりも愚かな生き物”という考え方から来てるのかなと。愚かさをもう少しわかりやすく書いてみると”同じ過ちを何度も繰り返してしまう”愚かさにあると思っています。人間は経験や出来事を忘れて思い出してを繰り返します、ゆえに同じようなことが起きても悲しんだり喜んだりできます。しかし同じ過ちを繰り返してしまう愚かさもあります。
仕事で同じミスを繰り返してしまったり、あれだけ悲惨なことを繰り返す戦争もそれだと思っています。

自分人間は愚かで同じようなことで幸せを感じれたりダメだと分かっていても繰り返してしまう、そういうものだと認め受け入れてあげることで僕の中でゆとりが生まれています。
ゆとりを考えるヒントに自己一致感というものがあるようです。自分の想像する姿と自分の姿がどれだけ一致するか、、自己一致感もさまざまな捉え方があるようですが大体そんな感じかと。

愚かな僕の心の中では、自分の想像する姿が自分の姿より小さくなっています。それによって他人からの評価などが容易に自分の想像以上のものになりやすいのです。

まあそんな愚かさをどう食事で表現できるのか模索しました。
愚かな食べ方、下品、未熟な食べ方、、、、模索の末に出たのが
”カレーを手で食べる”ということでした。

いざ手で食べてみると不思議な気持ちにかられた。料理でよく食材、命に触れる機会があるのであまり感じないだろうと思っていたのでなおさらびっくりでした。

手で食べ始める際、まずどこから食べ始めたら綺麗に食べれるか迷った。汚れを最小限にと無意識にそうしてしまってる自分がいる。手の汚れなんて洗えばいいのに汚れることを避ける。そういう抵抗を乗り越え食べ始めてみると案外大したことはなく、食べているのは珍しくもないカレーなのに普段とは違う刺激がある。普段オートマ化されている食べる作業をマニュアルで行うことでより食べるとはどういうことか物思いにふける。 
一皿の中にこんなに命やストーリー、情報があり日々の日常で見落としていたかもしれないと。
抵抗があるということは無意識に自分が感じているサインなのか、自分にとって無意識に抵抗を感じていることってなんだろう。もっと自分の中の色んな扉を開けたくなるそんな感覚でした。

手で触れることでいつも以上に食材を感じる。命や食材のできるまでも想像した。
と同時に想像できるのは自分に食べれるものだけで食べれない命にはありがたみを感じずらかった。むしろ毒クモも同じ命なのにそいつの命は別に感じたくないとも思った。自分は聖人ではなく欲で生きてる人間なんだと。

普段手で食べる行為がないわけではない日本人。パンやおにぎり、手羽先やカニ、手で食べる経験はあるのになぜかカレーはこんなにも不思議な気持ちにあるのか。

手で食べる主催者

試作の段階で主催者の彼と何回か一緒に手で食べたが、彼も彼で特別な感覚に駆られたよう。これはもっと多くの人に体験味わってほしいと思った。

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