際どい話題って
どこまで許されるのだろうか?
noteの規約的にどうなってるか確認しないといけないが、多分一ミリでもダメって言われる気がする。
一般論で我々の性質とその限界について語れたら良いが多分、何を語るのも許されないのだろう。
僕の性格や特徴的に、言葉が上滑り、過剰な表現にいたる。
だから、規約で万一常識の範囲内でとかあったと仮定しても、それは易々と突破してしまうのだ。
あまりにも過激な発言なのではないか不安になる。
ただ情熱は耐え忍ぶのが文化の源泉だ、とか言いたいだけなのだが、詳しく書くと、なんだかんだとか言われそうである。だからこれ以上書くことは何もない。
秘めたる思いが奥ゆかしい、という話ではなく、生々しいことであり、我慢する事で言わない事で触れない事でこそ文化的な活動に注力できる。と言いたいだけである。
というよりも余計な事を考えない様に他の事で紛らわす行為それ自体が文化的な活動な一つの起源であると思ってる。
あらゆる情熱は禁止されることによって燃え上がる。だから、絶妙な匙加減で手に入らないものがある方が良い。
手に入らないことで悪事に利用される人も少なくなり、結果的に誰もが満足する。つまり、本当に健全な喜びだけで生きることの方が満足度が高いだろうという思いもあり、その手の良くないものは絶妙に不完全である方が良い。現実を易々と越えてしまう過激な干渉は彼らを無感覚に至らせるのだ。
ただ現実は、その手の存在を単に力づくで無くそうとしてもうまくいかないだろうな。
どうすればみな、不満の与える満足感に気づくのだろうか?
もう無理なのかもしれない。僕らはきっと終わってしまった。
もうはっきり言っている様なものだ。これ以上は恥の上塗りだ。それでも今後自分の様な無様な男が生まれない様にヒントを残しておきたい。
ただその為には思索が足りず、狭い世界を生きた自分には言葉に力がない。
結局、目だけが狂ってしまっている。目だけなので何もないが、それでも人生の一部を壊してしまってる。
悪の魔法使いにはこの程度ができる貢献の限界だった。
それは、かつての同胞への裏切りではあるが、仲間を見捨てる奴が悪だとしても、仲間があまりにもアレだと、そのまま置いとくのも悪なのではと思う。
見捨てるわけではないのだ。寧ろせっかく魔法のステッキのような物を手に入れたのなら、もう少し交渉の楽しみで満たすべきで、独善な独りよがりはやめた方が寧ろ満足度が上がると説得する方が善なのだ。
あまりにも過激な術は、無感覚に至り、退屈が却って同じ刺激を繰り返す。それが間違いの元で、それを世間に晒したらどんな酷い目に合うかのほうが正しい楽しみ方である。
駆け引きが出来ないほど相入れない存在になった我々はもう一つの生物には戻れない。
恐らく表面を作り替えて、同質のものが愛すべき物を演じあうのが当たり前になる。
赤い花が白い花の様だ。きっと白い花も赤い花の様に振る舞うのだろうな。
(できる限りわかりにくく書いたつもりだが、分かる人はすべて理解してくれるだろう。わかってしまうことも悲しいことですよ)
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