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私自身のための広告

〈SungerBook-男とスコーン8〉 
 

このタイトルを目にして、ノーマン・メイラーの「ぼく自身のための広告」を想起する人は多いのではないでしょうか。とはいえ、若い人で知る方は多くはないのかもしれません。私自身、確か十代の終り頃にメイラーを知ったと記憶します。三島由紀夫と同時代のアメリカの作家というような印象です。特にアメリカ文学に傾倒するようなことはなかったので、作品を知ることもなく、ただある種の濃厚さとともに、「ぼく自身のための広告」とは人を喰っているような節があり、そのタイトルは記憶されました。

目次
・メイラーとの邂逅
・本の構成 マガジンの構成
・「作家」という人間
・マガジン化の意義
・デジタルコンテンツに達者なnoter
・私はnoterをめざさない
・「作家」という思想
・「本」は人なり
・「ぼく自身のための広告」パロディ
・レーベルは「SungerBook」
・「人」で読まれるとは

メイラーとの邂逅

私はnoteを利用する者として、自ら書いた記事の数がある程度まとまった時に、単なる単品での投稿だけではなく、それを編集構成して提出することを考えています。そこでnoteのマガジン機能を最大限に活かしたい、と思うわけです。一人の制作者が記事を通じて読者へアピールしていくのですが、記事をショーケースにディスプレイし「私のセットリストをご覧あれ」とばかり、アーティストばりにコンサートを開催してしまうようなイメージを描いています。

デジタルに疎い私がようようマガジンに気がつき、紙の本と同じようなことがnoteで実現できることに直面したのは、つい最近のことです。その際、「私はこんなコンサートを開きます」というのはいいのですが、それを告知しないことにはと思ったのです。仮に自分のマガジンができたとしたらそのセールスプロモーション記事を1本作るべき、と。新刊本を出す時に出版社が新聞広告を打つようなイメージです。そのあたりで、「ぼく自身のための広告」を思い出したというわけです。

記事は、何らかの魅力によって読ませます。マガジンは、その名の通りいわばまるごと本一冊の提示に近いものがあるのですが、その本なり、著者について何も語っていないわけですから、そこで、その告知の必要を感じるのです。

そんなことを思っていたらメイラーが気になってしまい、「ぼく自身のための広告」を図書館の在庫から借り出すことになりました。昔のものなので、開架にはなっていません。しかも、メイラー全集の第5巻1冊がまるごと標題作になっていました。当時の単行本も上下巻となっているようで、そのボリュームがわかるかと思います。

本の構成 マガジンの構成

その内容ですが、三島由紀夫が的確に紹介してくれています。以下、引用

「この本は五部にわかれ、第一部の初期の作品から、第五部末尾の『長い小説へのプロローグ』まで、年代順に、エッセイや短編小説や詩を並べ、その一つ一つの作品の前に、『·····のための広告』と称する丹念な前書きをつけたもので、日本ふうにいへば雑爼とでも名づけるべき本である。
 ただ、その編み方が独創的で、しかも全体に有機的構成があるので、通読すると、いかにも、奇妙な組み立てを持った一遍の長い作品を読んだという感銘があり、ノーマン・メイラーその人について、自伝を読むやうな、まとまった人間的イメージを抱かせる力がある。」

「三島由紀夫文学論集」『Ⅲノーマン・メイラー』より 講談社1970

私は、たまたまメイラーの「ぼく自身のための広告」を想起したわけでしたが、その内容を見てみると、世界的作家が自らのザッと10種類に及ぼうかというジャンルの作品を、自分で編集構成しています。

ひとつのマガジンに集める個別記事を一定の括りで束ねるとしたら、メイラーの構成と私の構想するマガジンの構成に、符合を見てしまうのです。
このことから、マガジンとは本のようなものだ、
と捉えています。

「作家」という人間


メイラーの場合各作品の前に、それを自ら前書きとも解説とも言える文章まで置き、さらにそれをぬけぬけと売りこむかごとき「広告」とまでタイトルづけしてしまう、そのある種のダンディズムと言わずとも、アメリカ人のある種濃厚な男性作家のイメージを感じることができるかもしれません。

三島による「ぼく自身のための広告」の解説では、「雑爼とでも名づけるべき本」とやや批評的に茶化しながらも、評価している印象を受けます。特に、「まとまった人間的イメージを抱かせる力がある」という箇所に着目してみれば、彼はメイラーの「人」を読みとっていることに気づきます。ここで、三島の解説は、作品解説を超えて作家論になっていると思われます。別にメイラーとの微妙なやりとりもあったようですが、三島自身の筆に載せる対象とする以上、同時代の外国人作家に一目置いていることは確かでしょう。

多数の著作を持つメイラーについて、「ぼく自身のための広告」だけをみても、あえて自身を広告すると語ってみせるそのスタンスや、各ジャンルの作品の前にいちいち「·····ための広告」を置く執拗さや、文章内容もヘミングウェイを批判したり、積極的に嫌われ者になることや、「自尊過剰癖」を自認したり、とかなりキャラの立った人とは明らかです。

作家の人間的側面を見てみるに、芯に強烈なものをもっていて、過剰さが漲っています。メイラーに限らず三島にしても、川端康成にしても、谷崎潤一郎にしても、ある「過剰さ」を持っていると
見ます。表現者の特性とでも言えそうな何かです。

因みに、ここで引用した三島由紀夫文学論集中では、メイラー以外にレイモン・ラディゲやコリン・ウィルソンなど計6人の作家を取り上げています。これを見るにつけ「人」が読まれているという感を強くします。その作品を通して作家としての「人」が読まれていると思うわけです。

マガジン化の意義

この時私は、「人が読まれる」「人で読まれる」点に着目してみたいのです。ひょっとして文章は「著作者で読まれる」面があるのではないか、という気がしてきます。

そこからやや飛躍して、記事は著作者で読まれなければならないと傾斜してみよう、ということです。著作者で読まれるようになるべきという、めざす方向の話です。と、私は考えています。

このように措定する時、マガジン化は複数の記事を束ねて提出する形式が、著作者という人を出しやすくなるように思われるのです。繰り返しますが、

「その編み方が独創的で、しかも全体に有機的構成があるので、通読すると、いかにも、奇妙な組み立てを持った一遍の長い作品を読んだという感銘があり、ノーマン・メイラーその人について、自伝を読むやうな、まとまった人間的イメージを抱かせる力がある。」

出典同上

という三島の解説を、「ぼく自身のための広告」の構成上の工夫と結びつけてみるわけです。一つは、こういう物理的な形式に光を当ててみているのです。noteのマガジン化をこの観点から意義を見い出しています。

しかし、単品記事はその記事の力が読者を引っぱっていきますが、複数記事の束としてのマガジンはそれ自体に牽引力はないと思います。実際の本ならタイトルと著者が読ませる力になるような気がします。ましてマガジンは、幕の内弁当なのか、トンカツ弁当なのか、餃子弁当なのか、わかりません。正確を期すと、幕の内や、トンカツやらの違いは、カバーコピーで表現できるわけではあります。しかし、入れ物としてのマガジン自体は人を表わしていません。

デジタルコンテンツに達者なnoter

本来であれば、これは名を成した自他ともに認める人が語ってこそ説得力が出てくるたぐいのことでしょうが、名も無い文章の好事家、素人、オタクでも語りうることだとも考えられます。どういうことかというと、

記事で読まれなければならないものの、記事で読まれることをめざすべきではない。

という私の考えです。レトリックを弄しているわけではありません。しかし、これだけで伝わるものではありません。さて、うまく伝わるように表現できるか····

かんたんに言って、著作者で読まれなければならない、ということです。著作者で読まれるようになるべきという、めざす方向の話です。

一般的に、私の浮かべる「一般的」にですが、ブログを始めた場合、アフェリエイトを付けて広告収入を稼ぐ方向に行きがちではないでしょうか。その方面に達者な方がいて、「私はひと月○◯万円稼いだ!」とか、自身の実績を武器にブログ作りの指南をしてきます。アクセス数を増やすとか、収益化とかいった事柄です。noteの場合ですと、ブログとアプローチは異なるものの、有料記事の販売実績で成果を出しているといった景気のいい話などです。「そのためのハウツーはこれだ!」といった記事の展開で引き付けてきます。

そういった「稼ぎ」の方向だけではなく、読みやすくわかりやすい文章の書き方、キャッチーなタイトルの付け方、適切な文字数、常套句は捨てろ等「文章技術」的な面も、よくあることです。また、ビュー数の稼ぎ方、いつの時間帯に投稿した方がいいかなど「デジタルコンテンツの機能」面から研究を重ねることがnoteでは日常的に行なわれています。その方面に強い方は、その方向での個別テーマでうったえてきます。note社もヘルプセンター運営様を置いて逐次、質問に答えてくれます。マニュアル本「noteのガイドブック」も出ています。これは、デジタルコンテンツの世界を紙の説明で教えてくれるわけで、ほんとに理解が助けられます。

noteを活用されている方はおわかりでしょうが、私は最近になってnoteのいわゆる「まとめサイト」を行なっている方を知って度肝を抜かれました。言葉の的確さはさておき、noteというプラットフォームにまるごと乗っかってしまうかのような編集サイトの存在です。これは、note社もユーザーも活性化する機能がありますから凄いことです。デジタルに疎い私が地団駄を踏んだところで叶わぬ夢でしかありません。そういう企画アイデアを
実行してしまうことについてです。

私はnoterをめざさない

と、このように触れた上で、私はこの方向には行かない、ということです。noteの有料化は当面考えていません。ただし、noteのサステナビリティを思い、ユーザーとしてはわずかでもの気持ちからプレミアム会員になる予定です。これだけ活用させて頂いていて、そろそろ「無料」に胡座をかくわけにはいかない、という思いです。

目標としては、記事で読まれるのではなく、私で読んでもらえる方向を志向するということです。
もちろん、わかりやすい、かつ、魅力的な文章は
常に追究しなければなりません。noteがサポートしてくる「眠っている下書きを見直して投稿しましょう」や「今月もう一回投稿すれば連続投稿でバッヂがもらえます」などなど、たいへんありがたいのですが、そこではありませんから。と言っても、困った時のヘルプセンターには助かっています!

要は、自分の書く文章を通じての「世界観」、書かれていることがらを通じて表わす著作者像を、どう描きだすか、ではないでしょうか。この時、知名度は大きく影響します。必ずしも作家として著名でなくてもいいと思われます。芸人、俳優、声優等々、名前が知られていれば、即刻アクセス回路が開きます。この意味でネームバリューは存在します。今回の本屋大賞の宮島未奈氏は、学生時代に太田光の本を読んでいるではありませんか。
必ずしも文豪でなくてもいいわけです。宮島氏と太田との会話の沸騰ぶりは、以前からの知己のようなほどの熱量にあふれていました。

ネームバリューが肝心と言っているのではありません。名もなき人としても、名もあり実績もあるプロ作家と同等の固有の世界を形作っていなければならないのでは、ということです。「著作者像を描き出す」といったところで、Aという人間像、Bという人間像から選択的に決めるということではなく、そんなことできるわけないことです。己という人間をまるごとさらすことに尽きるのではないでしょうか。 

この時、マガジン化の意義の一つとしての、複数の記事を束ねるという物理的な側面の、もう一方の効果への期待があります。記事の重層化により著作者の「人」が表わしやすくなることです。

先刻引用した部分を再三リピートしますが、三島がメイラーについて「ぼく自身のための広告」に関して

「メイラーその人について、自伝を読むような、まとまった人間的イメージを抱かせる力がある。」

出典同上

と語っているように、三島は作家ノーマン・メイラーの人間を読んでいるように思うのです。私たちが小説でも、エッセイでも、書店でその本を買うに至るのは、その表現者としての著作者を選んでいるように思うのです。その意味で、私は、私で読んでもらえるようになりたい、そのことを標榜するということです。

「世界観」などと気がきいた風なことを述べている場合ではなくて、自分をさらけ出していくしかないでしょう。自分の「志」に準じ、かつ、殉じる、しかないでしょう。つまり、生き方に帰着してきます。ノーマンー・メイラーにしても、三島由紀夫にしても、偶々実際の行動にコミットする「過剰さ」は共通していますが、そのことではなく、表現に駆られて止まない「奔流」のようなものです。太田光は「表現」について語り出したら止まらずに「沸騰」に見舞われることがありますが、必ずしも「作家」として達成していずとも、
そういう駆られて止まない何かです。彼は芸人としての成功があり、易々と自費出版あるいは商業出版できているわけですが。

「作家」という思想

note記事は、その単品の魅力で読ませるという意味では、一記事一記事が魅力的でなければなりません。紙媒体でも同じことです。しかし、その上で、著作者のトータルイメージ を伝える方法がないか、ということに辿り着きます。それを可能にするのが、マガジン化だと思い至りました。

これを既存の出版方法の領域で言ってしまえば、さっさと一冊本を作ってしまうことと同義になるものの、自費出版をすすめているわけではありません。noteと向き合っていく際の、書き手のスタンスにこだわっているのです。

デジタルコンテンツの機能に強くなり、文章技術もそれなりの力を持つ、それを不要と語っているわけではなく、やはり志向、めざすベクトルの問題ではないでしょうか。この文脈で違いを言うとするならば、前者がnoterであり、後者がノーティストと色分けしたいと思います。ここは、私の勝手な考え方です。私は前回投稿記事「ノーティストの見た夢」で、ノーティストの概念を提案しています。

intermission

ここに至り、note含めデジタルコンテンツ業界が、あまり取り組んでいない領域が見えてくるような気がするのです(実情は知りません)。例えば、岩波ならその文庫や月刊誌「世界」ではどちらかと言うと左傾化した思潮、新潮社なら文学、文藝春秋ならオピニオン、講談社学術文庫やちくま学芸文庫なら学究的専門分野····等々、この色分けは自信がありませんが、精度はともかくお伝えしたいことが伝わればという思いです。すでに兆候は出ていますが、株式会社noteは出版界を喰ってしまえばいい、ということです。この流れで思うに、私はnoterではなくノーティストを志向するということです。あえて言うならば「noter」はnote内というかデジタル内の世界での領域を主にしているのに対して、「ノーティスト」は、もう少し、もう一歩リアル世界にも足を踏み入れることを構想することを含めています。

これは、書き手としてのベクトルの問題であり、私の生き方の問題にひるがえってきます。私が若ければ作家をめざす、とシンプルに語れるところでしょうが、昭和26年生まれのおじいさんとしては、韜晦などではなく、少しく考えるところがあります。「作家になる、ならない」ではなく、実質的に作家としての内実を獲得したい、ということに突きます。デジタルコンテンツに精通することがどうでも良いわけもなく、自分の重点の置き方を模索、探索した果てのことです。

できれば、ノーマン・メイラーや、三島由紀夫のような「過剰さ」にあやかりたいものです。作家として大成した人というわけでなくても、私は太田光は過剰だと見ています。「表現」を知っている方だと捉えています。決して聖人君子ではなく、ダークサイドの香りも立ち籠めているような人間像です。薄っぺらな「いい人」であろうとはしていないという意味合いです。

ここは無名でも、表現者としての人間造形へ向けて、恥も外聞も捨てる覚悟ということです。私は十代から内面的にはアウトサイダーを志向してきました。早い話変わり者です。そういう思想へと連なる心性を、悪びれずに押し出していくようなスタンス。若い美空でいい人をめざす気分は、捨て去り、周りとは違っていたい、という私のへそ曲がりは、老いてますます盛んにせねばなりません。

「本」は人なり

「文は人なり」と言われますが、それ以上に私は
「本」は人なり、と考えています。上述した通り
メイラーの「ぼく自身のための広告」を紹介するにあたり、「三島由紀夫文学論集」から引用したわけですが、これは評論集で小説ではありません。「小説家の休暇」や「裸体の衣装」は、日付け入りのノートです。作家の精神世界を隣で覗き見するような空気の中に入っていきます。私が二十歳頃に何の躊躇いもなくこの本を買い、50年以上も経ていまだに私の精神に深く関わってくる存在、これはどういうことでしょうか。1970(昭和45)年11月25日確かに滅んだはずなのに、三島由紀夫は私の中で生きている!

私の書き溜めたデジタルコンテンツは、今、せっせとマガジン化を進めていますが、遅々としたものです。デジタルの世界は結局スマホやPCの平面世界での表現なので、なかなか事前にイメージしきれないところがあります。なんか、頭の使い方が違うのでしょう。デジタル脳で育っていれば、チャッチャッとできることなのだと思います。

「ぼく自身のための広告」パロディ

今回期せずしてメイラーの著作タイトルに思い及んで、それを踏襲していますが、そのアングロ・サクソン的なダンディズムがカッコいいと思っているわけではありません。メイラー自身、翻訳者の山西英一氏がその解説で指摘している通り、

「『ぼく自身のための広告』という意表をつく題名も、実は彼の痛烈な批判的発言を誇大妄想狂の放言とか自己宣伝とかと見ようとする良識派や現実主義者の世評を逆手にとって、その良識なるものに挑戦したのだと見ることができるだろう。」

「ぼく自身のための広告」(ノーマン・メイラー全集 5)
解説 (翻訳)山西英一 新潮社 1969

といったものをこめているのでしょう。私は、メイラーの作家としての強烈な批判精神をタイトルの裏地に縫いつけるマインドではなく、すでに50年も経った古めかしさをリバイバルさせておもしろがっている程度のことです。あえて言えば、noteのマガジン化を意味づけするにあたり、世界的作家を担ぎ出している便乗精神と卑下する必要もなく、大作家にはリスペクトあるのみです。

併せてnoterではなくノーティストにこだわっているのは、その名称・肩書きなどではなく、そのめざすところの実像が肝心とは、あらためて強調する私の思想ということです。若者のように未来時間が青空のかなたに広がっているわけではなく、
夕暮れ時の帰り道を一歩ずつ踏みしめる身の覚悟と言いましょう。私は「文章」に生きています。

レーベルは「SungerBook」

ブック(マガジン)は、とりあえず7種設計しています。レーベルデザイン(マガジンカバー画像)はご覧の通りです。

SungerBook 男とスコーン
SungerBook 萌え町紀行

今のところ(本記事投稿時点)、記事を格納したマガジンとしての投稿は最初の2種(テーマカラーピンクとイエロー)のみです。今後、既存の記事を収納していき、新たな記事も、随時マガジンごと投稿していきます。もちろんこれを機会に葬り去る記事も出てきます。
ブックの内容概略は、前回投稿済みの繰り返しになりますが、ここでの意味合いが伝わりやすくなるだろうと思い、再録します。

SungerBook7種と記事構成(例)

●男とスコーン(ピンク)
―生活に抒情を求めるとき〈エッセイ〉

・私自身のための広告
正に本稿です。
・ノ―ティストの見た夢
ノーティストはこの国のムーブメントです。
・進撃のおじいちゃん
若い女性達にパワーを供給してもらっています。
etc.

●萌え町紀行(イエロー)
―暮らした町を愛してる〈エッセイ〉

・風の渚
上大岡
・エロスの都
鎌倉
・帰って来た城下町
仙台
etc.

●キャッツアイ(ブラック)
―突き詰める、見極める〈論考〉 

・新説「作者の死」
テクスト論で知られるロラン・バルトに疑問をぶつけています。
・何故その本は読まれるか※
6冊の本について読者の立場から価値分析を行なってみました。
・素人視点※
その思想としての特徴と、文章の「民芸」論を展開しています。
etc.

●舌鼓(グリーン)
―どこまで味わい尽くせるか〈文芸批評〉

・藤沢周平の愉楽にひたる⑴⑵
藤沢周平の世界を堪能しています。
・百田尚樹「輝く夜」の輝き
 百田直樹氏を喝采するとともに、添削してみました。
・「上から目線」と文芸批評※
江藤淳など、文芸評論家からどんなことが学べるのでしょう。
etc.

●燕返し(セピア)
―斬らずにいられない〈クリティーク〉

・仲木戸を消した京急の罪
京急東神奈川などという駅名改悪を呪っています。
・「永遠の0」で特攻してみる
石田英敬教授の「記号論講義」(ちくま学芸文庫)の第9章を批判しています。
・抑止限界論への疑義※
藤原帰一教授の論文(2022「世界」7月号)を批判しています。
etc.

●カラーグラス(ブルー)
―こんな見方もあるさ〈社会文化評論〉

・なぜ世界遺産に浮かれるのか※
世界基準の登録はいいことでしょうか。
・借地借家人としての日本国※
この国は自立できているのでしょうか。
・私はスキップしない※
アレを「ワクチン」と思っている人達と話ができない思いです。
etc.

●ファンタジーの小径(オレンジ)
―誘われて行く宇宙がある〈創作物語〉

・ポストメルヘン
著名なメルヘンのその後のお話です。
・クッキータイム※
事務所のおやつにまつわるエピソード。
・ぴいちゃんのクリスマスケーキ※
ケーキを用意したんだけどね····
etc.

※印は 2024年7月現在note未投稿。

また、名刺ではなくURLカードを作って、気の置けない方に差し出し、気が向いた時に記事に触れてもらおうとも考えています。この時、単品記事一覧ではなくマガジンからディスプレイできることが、出版した著書イメージに近いものとなるでしょう。「押し売りかよ」「自己承認欲求が強いな」···何を思われようが、そんなものを吹き飛ばす迫力がなければなりません。もう、表現することで人生を紡いでいこうと、そこに振り切った私の生き方です。

すでに「LINE友の会」と称して、親族や知人や友人にデジタルでの記事の展開を試みていますが、
URLカードはアナログ社会での広告媒体であり、
いわゆるメディアミックスということになります。

本稿はnoteの活用法的な記事とする点に狙いがあるわけではありません。自称ノーティストの「私自身のための広告」であり、私自身への戒めとしてということになりましょう。

昨年、AIとテクスト論が結びついてしまう懸念から「AI時代に回帰する作家論」で、拙い論考を試みました。関連して試論「新説『作家の死』」でロラン・バルトの矛盾を指摘してみています。私たちはデジタルコンテンツという、便利な万年筆と発表の舞台を入手して、「雑爼」な収入を手にし、作家気分を満喫させてくれる陥穽にあるような気もしてきます。「私自身のための広告」とはすなわち私自身のための忠告ということです。

「人で読まれる」とは

すでにある程度触れてはいますが、このことをもう少し突っ込んで検討しておかなくてはなりません。本記事で引用した「三島由紀夫文学論集」の
Ⅲにはノーマン・メイラーはじめ外国人作家が計6人扱われています。三島の別著書「作家論」では、日本人作家15人が扱われています。これらを概観する時、稀代の作家は人間を読んでいるという思いに至ります。もちろん、文章を通じてのことであるし、その重要さが変わることはありません。

「人」は文章の中に存在しています。人で読まれることに着眼しても、新たな表現方法が開拓されるとも思えません。「いかに生きるべきか」などというつまらないことを言うつもりもありません。あまり多くのことを呼び寄せる契機にはならないものの、骨太のスタンスを気づかせるような気がします。要は「創造の小径」を歩むにあたり王道を踏みしめていきたい、と考えています。

ものごとは、二面性があったり、多面性があったりします。この意味では、文章技術やネット技術にばかりに捕らわれることから離れる視点も重要だということです。ここで、これも私に焼き付いているほぼ50年前のわが師匠のフレーズを掲げておきます。

「嫌われることを恐れて好まれることはない」

ヘッダー画像 撮影2018 

■Spin-off(エピソード)

高校の修学旅行の時、学校側から服装身成に関しての注意として、男子は革靴禁止と、土産品の購入禁止が案内されました。どちらも100%ザル法です。私は、通常の通学時通りズックで通しました。(当時はスニーカーの言葉はなかったと思います。)旅行後、席にいた私を別クラスから誉めにきた女子生徒がありました。学年で一二の成績の女子でした。
その実、内心私はその女子に対してほくそ笑む心情と、成績上等女子への嘲笑が渦巻いていたのです。私は学校の言いつけを守ったわけではありません。我も我もと、革靴がカッコいいと思うセンスにしても、周囲に合わせなくてはとの同調圧力にしても、そういう心性を侮蔑していたのです。
土産品の方は、中学だったか、高校だったか、忘れましたが、何も土産品を買ってこない私を、家族は不信がっていました。要は、人と同じでありたいなどとは思わない、天邪鬼なのです。
つい、スピンオフしましたが、それが私です。


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