「永遠の0」で特攻してみる
〈SungerBook-燕返し999〉「記号論講義」批判
前回公開済みコラム「神話としての永遠の0 ─ 英霊という記号についての試論」(LINE BLOG)の内容に引き続き、関連して叙述しようとしています。
「永遠の0」についてはそもそも文学論的な観点からの批評を着想していましたが、再読して、大石賢一郎が孫の佐伯健太郎に宮部久蔵のことを話して聞かせるあたりに、読む者の胸中に迫ってくるものの質を精査してみると、単に感動したとか、すごいとか、そういう安っぽい表現で終わらせるわけにはいかない、と思うと同時に、それは「文学論的な観点からの批評」を容易に廃棄させるものでした。
「斬り捨て御免」を斬る
「永遠の0」は映画化もされ話題になりました。私は映画より小説の方を買いますが、この作品について出てくる否定的意見は主に二つあって、一つは宮崎駿監督などに見られる系列で、戦争美化と決めつけ自分の価値観から斬って捨てる類いです。またこの系列に付属すると扱いますが、作家石田衣良氏などがこの作品を「右傾エンタメ」として、決めつけています。
両者とも表現者でありながら、「永遠の0」を作品論ではなく、思想論でかたづけようとするそのスタンスが、すでに負けているように思われます。どちらも表現のプロではあるものの、批評のプロでないわけで、そこは同情すべき点かもしれません。反射的な拒絶反応を示しているに過ぎません。
特に石田氏については、数百万部のベストセラー小説に対して、あなたが言うだけ馬脚が現れるからや、 負け犬の遠吠えのフレーズを贈りますから、と申し上げるだけで十分でしょう。どうも作家らしいのですが、石田氏がどのような作品をお持ちなのか一つも浮かんできません。
もう一つの批判の系列は、文学性の観点です。文芸評論家の富岡幸一郎氏が「永遠の0」について「戦争の描写はまあまあ書けている。(中略)文学としての価値は極めて低い」などと発言しているようです。当初私が考えていた批評の視座がこの方向ということです。しかし、すでに触れた通り、再読の結果立ち位置を変え、評価の方へ転換しました。富岡氏の批評は、ある意味、的はずれと言うべきでしょう。超人気の街の食堂について、味はいいが割烹の格調がない、などと言っているような類いだと思います。文芸評論家福田和也氏が批評の際に、純文学ジャンルの小説とエンターテイメント小説を峻別しているように、ここは区分けがあって然るべきでしょう。そこは、素人の私でさえ、踏み留まった部分です。論じる上でのなんらかのクリエイティブはないのですか、と申し上げたい。ただし、富岡氏は思想的立場としては宮崎駿監督のようには「永遠の0」を否定しない可能性があると見ます。
物語の歴史的系譜
「文学的に価値のある小説」とは、久しくお目にかかっていないような気がします。この枯れ木も山の賑わいとなっている文学界、出版界にあって、富岡氏はイージーに「永遠の0」をこき下ろしてしまっていないでしょうか。ディスクールの粗雑さが文芸評論家のポジショントークと思わせるには十分です。私は、この小説を今までなかった視点から光を当てることにトライしたのが、前回の「神話としての永遠の0」というわけです。説明的ですが、記号論の視座から照射を試みたのです。
芥川賞の完全商業主義化を持ち出すまでもなく、大江健三郎がノーベル文学賞をとった時点で、日本の文学は終わっています。商業主義を問題にしているのではなく、それ以前のことです。にもかかわらずこの賞に食らい付こうと右往左往する輩がいることは、恥ずかしいことです。一部の作家や、多くの大学教授や弁護士連中の「レフト」化に見られる、GHQの洗脳効果の凄まじさは、日本の精神的骨格を悉く蝕んでいるように見えます。わが国家を置き去りにして文学もノーベル賞もないだろうに。
日本には、古事記や源氏物語という世界に超絶した歴史的文学のレガシーがあるではないですか。ノーベル賞という世界基準にすがりつく態度に、沈んでいく「純文学」という狭い枠組みの衰退の象徴や、自国に対する国家観を持ち得ないさもしい島国根性を見る思いがします。私は「永遠の0」を、たとえば日本の「物語」という歴史的射程で捉えるといった試みの必要性は論じられて然るべきと思います。もちろん、今の文学界にそれは求めようもありません。
文学界は何となく百田氏を黙殺しているように思われます。具体的に何がどうしたとの事態に接してはいないのですが、百田氏は発言力もあり、炎上に巻き込まれることを恐れているような雰囲気や、腫れ物に触るような空気を感じると言えば、何か伝わるでしょうか。一つ言うとすれば、直木賞を与えないことにそれが表れているかもしれません。当時百田氏は立派な新人でしたけどね。
最近、ノンフィクションライター石戸諭氏が、ニューズウィーク日本版「愛国ポピュリズムの現在地 ─ ルポ 百田尚樹現象」で作家百田尚樹を検証しています。「百田尚樹現象」は昨年同誌で特集記事になったことでもあり、このように百田氏が話題性のある作家であることは間違いないでしょう。
記号論を学んでみる
前回私が「神話としての永遠の0」を制作したのは記事中少し触れていますが、「永遠の0」を再読しているタイミングに、石田英敬教授の「記号論講義」と出会ったことがきっかけです。
予め購入を決めていて書店に行くパターンもありますが、たまに、書店で初めて対面した本を全く迷いなく買うことが、私にはあります。そう多くはありませんがその時の自分の興味に合うとか、潜在意識を呼び覚まされるとか、そういう感じです。もちろん理性は働いているものの、「これだ!」とか「こんな本があったか!」と、衝動的な買い方をした一冊です。
石田英敬教授著「記号論講義 日常生活批判のためのレッスン」(ちくま学芸文庫)は、大学生向けのテキストの体裁をとっていて、記号論に触れるには格好の本と直観しました。もちろん、もともと記号論に興味があったということです。手っ取り早く理解しようとして、よくあるマニュアル本的なものを読んではいますが、理解不能でした。その点、「記号論講義」は、体系的な論となっていて、入りかた、読者への入ってきかたが違う、と感じます。
全11章から成っていて、特に①~③は知的興奮を覚えます。平易に読めるとは言えませんが、ソシュールやパースを解説する形をとっていて、記号論の醍醐味に触れる思いがします。
特に本編ではなく、「まえがき」や終盤での「展望 ─ セミオ・リテラシーのために」は執筆の意図がわかるとともに、記号論の現在地がわかることに加え、「記号の知」の可能性が伝わってき、ここは、記号学やメディア論の専門家のレクチュアに接し、新鮮な体験が得られます。もしかしたら、記号論は終わっているのかもしれないという予感はありましたが、それは、私の中できれいに否定されました。ディシプリンとしては確立していないものの、石田先生曰く、広く「学問分野を横断する認識論的なパスとしては巨大な拡がりをもつにいたっている」ということです。
「記号論講義」への意味批判
一素人が大学教授の著作に対して申し上げるのは、甚だ僭越というか、無謀に等しいかも知れませんが、本編の①~③が「記号の知」の解説として白眉というか核心部分で、他の章は「記号の知」のものの見方による展開、と拝読いたしました。しかし「⑨象徴政治についてのレッスン」は、頂けません。
石田先生は「ここで扱うのは、アクチュアルな政治的問題ですから、私の基本的な立場を簡単に述べておきます。」として、
「現代のナショナリズムは共同体の脅迫として『日本人』のアイデンティティの問いを占有しようとします。また、国民国家への無前提の同一化は、歴史や文化の多様性を抹消して、すべてを『国民の歴史』に統一するような情緒的な言説を生み出しています。」
と述べていきます。
ここのあたりは「象徴政治についてのレッスン」と掲げる章ではあるものの、「記号の知」の解説の趣きは一掃され、自らのディスクール表明の場になってきます。この章は66ページに亘りますが、その中に瞥見される特徴的な記号を拾ってみると、
・ナショナリズム
・天皇制
・日の丸
・君が代
・明治天皇
・御真影
・靖国神社
となり、石田先生はナショナリズムをシニフィエとした天皇制をシニフィアンの記号としてお使いのようです。そもそも「天皇制」などというラングはありませんから。共産党がクリエイティブした政党用語に過ぎません。かつ、聞き捨てならないディスクールをいくつか拾ってみると、
・「表参道は、再び戦前の天皇制国家の聖所へと導く道としての性格を取り戻しつつあるのです。」
(1997年頃についての指摘)
・「明治国家による『伝統の創出』とは、西欧の国民国家の象徴装置を記号表現(シニフィアン)として模倣的に採り入れると同時に、その記号内容(シニフィエ)においては天皇制の支配の永続を過去に向かってアナクロニックに投影するという特徴をもつものであったのです。」
(「君が代」に関連してのディスクール)
・「靖国神社」への政府首脳による参拝が行われ、「紀元節」の復活をめざす法案が国会に提出され、それとともに文部省は「日の丸」・「君が代」を再定着させる動きを強めていきます。これは、戦前のシンボルが、戦前の体制を支えた人たちによって再びもちだされ、再び国家の記号として押しだされていったことを意味しています。
(戦後 1950年代)
・国旗・国歌法の成立以降、東京の街角でいっせいに掲げはじめた日の丸は、そのような「時代閉塞」の記号であるのです。民主的手続きの外観をとりつつ、じつは極めて差別的であり抑圧的であるという支配の体制が、そこからは生みだされていきます。
(1999年の国会決議について)
玉砕覚悟しています
これらのエクリチュールは、いったいどこの国の先生が記しているというのでしょう。伝統を守ることを西欧の模倣などとなぜそんな卑屈な捉え方をするのですか。靖国神社へ政府首脳が参拝するのは当然の姿であり何をそんなに恐れているのですか。国旗を掲げ、高らかに国歌を歌うのは好ましい世界的常識であり先生はどこの国の国歌を歌いたいのですか。と申し上げます。
しかし、こんなに偏ったレクチュアなら東大など行くべきではないでしょう。東大の先生は、巷間言われる通りこんなに偏向しているのですね。国旗国歌を悪いもののように扱い自国を敬えない、かつ無惨に散っていった英霊に向き合うことも否定する人間って一体何なんですか。
おそらく石田教授は「永遠の 0」を否定するでしょう。靖国神社や日の丸というシニフィアンによって意味されるものをナショナリズム(シニフィエ)として意味批判したいようです。宮崎駿監督を「永遠の0」を否定的に捉える代表とすれば同じように考える人々の一群があります。
前回の私のコラム「神話としての永遠の0」は、この人々の考えかたに対するアンチテーゼとして企画しています。この時、それを表現する方法として記号論を導入しているということです。繰返しになりますが、記号論との出会い、すなわち石田教授の本との邂逅は偶然です。私にすれば、記号論を読み進むにつれて、「永遠の0」との符合が随所で発生し、拙文をまとめたという経緯です。「神話」や「神話化」は記号論の中にそもそもあることだったのです。
一方、本コラムサブタイトル「記号論講義批判」は、石田教授の「記号論講義」特に、第9章への意味批判として構成しています。
「神話としての永遠の0」ついては、記号論の素人(私)に対して、おそらく石田教授などからすれば、「記号の知」の適用の間違いや不適切を指摘するとともに、「永遠の0」自体も斬り捨てるものと想像します。
それだけではなく、本「記号論批判」についても記号論の専門家、プロとして大いに反論することでしょう。
それも想定した上で「神話としての永遠の0」全体を「記号論講義」第9章へ向けた「特攻」として意図しました。
私としては、宮部久蔵が米軍に特攻するのと同じ思いです。「永遠の0」を否定する人々とともに、反日を展開する大学教授に対して、正に玉砕覚悟で意味批判を試みるものです。これが、私の脱構築への挑戦と言わせて頂きます。などと言わずとも、論の有効性とは関係なく、「記号論講義」の第9章へ向けて突っ込んでいきます。★
(初出2020.9.30)
後記
記号論を使って「永遠の0」を捉えかえすことが一定の効果が得られているなら、いわゆる鹵獲(ろかく)が成功しているとも言えましょう。しかし、本コラムについては前作コラムのような理論武装にあたるものはなく、構図としては「永遠の0」肯定論をもって、「記号論講義」第9章へ突撃しているということになりましょうか。
しかし、冷静に考えてみれば、記号論などという鎧を着せなくてもよかったのかもしれず、淡々と論ずる方が伝わるものがあったのかもしれません。しかし、洋服売場でヘビーデューティに見えたコートを思わず試着してしまうのは、やはり素人の為せる技というところでしょうか。
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