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AI時代に回帰する作家論

──「発光」するキャッツ・アイ


上掲は前川裕子画伯作「緑の背景のある猫」

この春頃からチャットGPTが、情報に疎い私にも迫ってきているように感じています。圧倒的なその能力に、何が起きているのかと、ただただ驚くばかりでした。この領域に強い識者たちが動画番組に登場しては、熱をもって語りあっています。プロンプトだの、オープンAIだの、シンギュラリティだの、当方は何のことやら「口をあんぐり」とさせて「目を丸く」させるばかりです。

特に印象的だったのは、落合陽一氏がチャットGPTで、自分の過去のデータを使って文章を作成し「自分が死んでも落合陽一の言いそうなことは作れるのさ」などと、ちゃっちゃっと実際にやってみせて、とうとう私は「腰を抜かし」てしまいました。腰の症状が緩和してきて整形医院の帰りに書店をのぞくと、いつの間にかチャットGPTの雑誌の平積み、コンピューターコーナーにはそのマニュアル本があふれているではないですか。

チャットGPTは文章を作れるし、生成AIとしてはイラストも描けるし、音楽も作れるらしい。「ホワイトカラー消滅!」などと、経営者をほくそ笑ませつつ、サラリーマンの危機感を煽る空気が一気に充満しているかのようです。私は、漠然と作家はもう御払い箱になるのだろうかと、コロナ禍が終息したあとにはチャットGPTの登場とともに、とらえどころのない「禍」の中に迷い込んでいます。

今はテクスト論が主流?

私は以前からテクスト論が主流と思っていました。書かれた文章の理解は、作者の思いに関わらず読者の解釈しだいでいいだろう、と考えていました。まして、「作者の死」で有名なロラン・バルトなどに触れてみると、哲学界での構造主義のインパクト同様に、それまでの絶対的であった作家論が、テクスト論に相対化されてしまったというイメージで捉えています。これは、文学論、文芸批評界でのできごとと言えましょう。

しかし、「作者の死」と言っても、作者や作家が不要になったということを意味しているわけではありません。一つの作品が創造されるには、まず作者の営為があってのことです。その作品に対しての読解の方法として作家論があれば、テクスト論もあるということなのですから。ロラン・バルトの「作者の死」とは、テクスト論のことを作家論に対してのメタファーとして語っているものと思われます。

稀代の批評家でもあった作家はテクスト論に
ついて、どう評価しただろうか

ここまでで私は①「チャットGPT」をきっかけにして、②「テクスト論」という文学界や言語界のイシューを引き寄せています。チャットGPTというものを確認し、テクスト論についてもよく精査する必要がありそうです。その上で人間の表現行為と、それに対する評論・批評行為について探ってみることとしましょう。なお、テクストを生成するAIがチャットGPTということで、絵や音楽などを作る生成AIもあるようです。

チャットGPTで作家は不要となる?

ここで専門的な領域に首を突っ込んでも足元を掬われるような気がします。大づかみに捉える思考で考えてみたいと思います。

まずは、チャットGPTはツールという位置づけを押さえておきたいのです。ツールを使うのは人間です。軽々しく文房具に過ぎないと言い切った方がスッキリしますが、これまでを振り返ると、ワープロが出てきた後に、パソコン通信が始まり、その内インターネットが世界をつなぎ、PCの中にあるエクセルやワードやメールが私たちの文房具を飛躍させました。今や、電話付き小型PC(スマホ)は、日常携行品になっています。

もうスマホのない生活は考えられませんが、
気がついたらPCに対する時間よりも、圧倒的に電話付き、カメラ付き、動画付き·········携帯PCに接している時間が長いことになっています。さまざまなプラットホームを通じて、有名女優の不倫情報が新幹線よりも速く交差し、また、私などの駄文もnoteというプラットホームに鄙びたローカル電車の古色蒼然とした姿をダラダラと走らせています。SNSの普及は、マスコミュニケーション媒体によって形成されていた世相世論の有りようを一変させてしまっただけでなく、Z世代の登場は、団塊の世代の量的な影響力とは異なる、新たな社会的シンギュラリティをもたらす可能性を胎動させているかのようです。

チャットGPTを使って制作する場合、プロンプトを与えることや、結果として出てきたテクストを評価するのも人間ではないでしょうか。「道具としてのチャット GPTと人間」という構図がある限り、恐れることはないように思えます。つまり、もしチャットGPTを使うとしたら、一般人の誰でもが使いこなせはしても、そこからアウトプットされる作品の巧拙は人間のプロとしての、やはり専門家がすぐれるのではないかと考えるところです。

ビッグデータに基づいて、説得力ある論文や、リアルで精緻な小説を仕上げてくれるにしろ、人間の手や目で、評価・推敲を施さなければならないのでは、という点では、作家にとってチャットGPTは鉛筆に過ぎません。まして、過去に使われた語彙では、新しい表現は難しいでしょう。新語を作るという意味だけではなく、同じ言葉を用いても、異化とか差異とかいった部分、語の用い方における作家の視点もあります。文学的な語用では特にそうです。もし、チャットGPTが偶然、新しい語用を制作できたとしても、それを見つけたり、その効果を作品全体に統一的に展開させる目配りも作者のものと思われます。この意味で、チャットGPTが作家や批評家を失業させはしないだろうと思うのです。

岡本太郎はインダストリアルデザインも
手掛けたので、こういう写真を撮ったかもしれない

このあたりを別の角度から言えば、作者名なしのチャットGPT作「作者の死」などと言う小説や論述があったとして、誰がそれを読むでしょうか。プロンプトの設定から、構成、テーマ、そして仕上がり全体を監修する作家、制作者がいなければその価値は保証されないでしょう。そもそも、読者は作家によっても読む、という面があると思います。

「テクスト論」と「作家論」

ここまでで言えることは、チャットGPTは作家になれない、ということです。

しかし、テクスト論でいえば「作者の死」なわけだから、作家はいらないのではなかったか、という疑問が生まれます。作品ではなく、テクストをチャットGPTに制作させるということならできそうに思えます。語用が確定しているというか、万人が共有している世界、たとえばビジネスやマーケティングでは可能ではないでしょうか。この部分では、ホワイトーカラーのマンアワーはだいぶ無用となるのかもしれません。

私は文学作品、特に新しい小説の誕生は、作家の言葉に対する個性の発露という面があると思っています。独自の世界を構築しようとすればありふれた表現は避けるし、同じ言葉でも切り取る視点が違います。その達成度が小説の固有世界の建築に関わっていて、作品のオリジナル性を創造します。これは、チャットGPTにはできないだろうと考えられます。どれだけ検索対象用語数があっても、過去のものだからです。時代とともに変わる人間の感性を反映した新しい感受性による、感情や認識や思考など、この領域は難しいだろうと思うわけです。

文章の技術的な面だけを語っているようですが、そうではなく全体を通じてのテーマの斬新さ、創造性が肝になってくるでしょう。チャットGPTは作家になれないという意味は、創造性がないということに辿り着きます。

作品と言った時点で、作家の作品、作家が創造した作品という意味を含みますので、作家論ということになるようです。この意味で作品論とは、作家論になります。
一方、テクスト論とは、読者論のことになるようです。読者論では、石原千秋著の「読者はどこにいるのか」がよく知られています。わが国でテクスト論といえばこの本が定説になっているような印象を受けます。「内面の共同体」の概念が語られ、日本の小説が「内面の共同体」形成に寄与してきたというカルチェラルスタディーズは、とてもおもしろい指摘だと感じられます。小説が社会に対して力を持っていた頃のこと、と言えると思いますが、文学も読者も変わってしまったとは、誰しも認めるところでしょう。時代が変わってしまったというべきか、わかりやすくは、小説が昔ほどのパワーがなくなったことに行き着きます。

「作者の死」とは何か

ここで、私の意識の混濁を解いておかなければなりません。①「チャットGPT」は鉛筆の発展形とすれば制作ツールであり制作者の問題です。②「テクスト論」は、文学小説の読解の問題です。バルトを参照してみると小説を念頭に置いているようです。つまり、制作の方法と読解の方法の混濁、があるようです。

この写真の世界には、白川義員のクリエイティブに
見られるような、絶対的な一瞬がどこにもない

しかし、なぜこれが生じるかと言えば、バルトが「作者の死」と語るそのことから派生すると思うのですが、テクスト論で読解された文字通りそのテクストがデータとして、つまりチャットGPTの検索対象としてのビッグデータとして蓄積された場合、そこに作家は存在していないわけだから(作者の死)、新たな制作をしようとした場合、作家が不要になる、と思わせます。チャットGPTを使えば誰でもが制作者になれるという意味です。

しかし、これこそ制作の方法と読解の方法の混濁、というべきです。文学評論としてのテクスト論に、作者の動機、意向、狙い等を顧慮していないとしても、もともとの対象としての作品は、作家が関与しなければ、そもそも批評対象が存在しないわけですから。読者論としてのテクスト論を、「作者の趣旨を考慮しない捉え方」の点から、くだんの作品について、私がうっかり作家と文章を切断してしまったことから生じたことです。

では、そもそも作家論って何?ということで考えてみれば、この世に数多の作家論があります。夏目漱石の作品を通じて漱石を論じた作家論(=漱石の作家論としての作品の読解)。三島由紀夫作品を通じて三島を論じた作家論、三島自身が十数人の作家の作品を論じる作家論…。

しかし、世にあるテクスト論の考え方ほどには作家論の考え方はないように思います。言い方を換えれば、テクスト論についての「論」は出回っているのですが、作家論についての「論」は見ないように思います。特定作者の作家論ではなく作家論自体を論じるケースのことです。これはどういうことかというと、そもそも作家論の考え方は小説や絵画や音楽に限らず、極めて自然発生的な思考から生じているもののせいだ、と私は思います。創作した作者の意向を気にしたり、重視したり、作品の解釈にあたって作者の意向をまず考えるのは、極めて自然な流れではないでしょうか。

作者の「発光」と読者の「発光」

作者や作家の表現行為ついてクローズアップして、そのプロセスに着目すれば、まず動機の懐胎があります。これを本論ではメタファーとして「発光」という表現を試みます。
これを「金閣寺」でみるとすれば、国宝が放火によって消失してしまうという社会的事件を、三島由紀夫がこの犯罪行為に着目し、普通に捉えれば悪でしかないことを小説に仕立てるということに着想した瞬間、これが「発光」(動機の形成)です。しかも金閣寺という題材に、のうのうと戦禍を免れた伝統文化のシンボルに、自らの美意識と思想と、散文的で平和な日常への怨念をこめる創造行為、すなわち「発酵」を経て作品の完成へと至ります。これは、私の個人的な見方ではなく、作家論としての文学界のほぼ定説と言えるようなものでしょう。

この経緯は、実際の作家の創造プロセスと考えることができると同時に、読者としての私が作品を通じて作者を論考する作家論ということができます。私のオリジナルな解釈ではなく、「金閣寺」を読了して、あるいはその最中でもいいのですが、批評家等の解説を経て、作品の享受から得られる何らかのインスパイア、これも「発光」とメタファーすることにします。

もしベルナールビュフェが制作に介在したなら、
私たちはある共通のタッチを想起するでしょう

これとは別に、テクスト論の方向の一例ですが、たとえば作家の鬱屈や戦後に対する思いなどは顧慮せずに、金閣寺という国宝をいかに美しいかの存在として、また、焼かれる運命を描くことを通じて、この歴史的建築物を、腕に覚えのある非凡な著者が、その価値同等の絢爛たる国宝級の文章に仕立て、歴史的文学として完成させたテクストの小説と、いわば建築物尊崇のドラマと、私が読解したとしましょう。金閣尊崇にシンボライズさせた京都尊崇、これは、広島をはじめ長崎、東京など日本中の消失した町や皆殺しにされた日本人の魂を吸収しているが故に輝くのだ、という解釈です。読者がそこに至った時、その瞬間も「発光」といえましょう(*)。
この「発光」とは、感動や感銘と同義語に他なりません。作家が動機を懐胎する瞬間と同じように、読者が自らの解釈を発見するということです。

しかし、上記は私のテクスト論として述べてみたわけですが、もしかして作家は己れの技量を知悉していたわけですから、絢爛たる日本語による文学で、文章によって金閣寺同等の国宝級小説とする野心はあったかもしれません。テクスト論としての例が不適切かもしれませんが、そもそも、テクスト論と作家論との境目は一体どこにあるのか、ということを言いたいわけです。「国宝級小説」とは大袈裟過ぎますが、日本文学史上で正統派のシンボリックな作品を意図していた、などという事実が出てきたら、これは作家論になってしまうのでしょうか。

「作品」に再帰する「作家」

作品論とは作家の作品だから作家論であることは触れました。しかし、評論対象としての作品と言うとき、それをテクスト論で読み解こうとする場合であっても、作品の中にすでに作家は存在しているのではないでしょうか。皮相的な言葉遊び的に述べているようですが、深い実相としても、私にはそう考えられます。そう思ってみると、「作者の死」とは言い過ぎであって、テクスト論とは、単なる一視点ではないのか、と思えてきます。ロラン・バルトの主張は「テクストの快楽」などではアフォリズム的なもので、ロジカルな「論」になっていないのでよくわかりません。あとは、「物語の構造分析」中にあるらしい「作者の死」を尋ねてみるしかありませんが…。

これを絵画で考えてみたいと思います。
まず、生成AIはイラストを作成するようですが、絵画は難しいのでないか、という気がしています。この件については、これ以上触れることはできません。よくわからないのです。音楽と生成AI についても、同様です。あらかじめ押さえておきます。

ただ、絵画については、文学作品すなわち、小説、エッセイ、評論についてすでに叙述したように、人間の手の介在が必要なのでは、と想像しています。たとえば、千住博氏の構築する絵画世界の芸術性を、生成AIが創造的に生成できるだろうか、といったことです。

絵画は視覚芸術ですからテクストはないのでテクスト論はありません。作家論のみとなります。果たしてそうでしょうか。
評論対象としての絵画にはテクストはありませんが、画家の意向、考えなどを読解して論じる作家論と同時に、鑑賞者の感受性だけで論じる鑑賞者論は成立すると考えられます。換言すれば、論じる対象は文章以外の絵でも音楽でも、作者の意向を考慮するか、しないかの論が存在します。後者の場合については、テクスト論に相当する概念がないようですが、実はそれが記号論へ近づく第一歩になるのかもしれません。

ショッピングセンターの空き区画を活用するアイデアに喝采。展示作品とスペースがマッチしていた

さて、このブログの冒頭に掲載させて頂いた絵ですが、確かタイトルは「緑色の背景のある猫」だったと記憶しますが、画家前川裕子氏の作品です。あるアート市を覗いた際に絵画だけではなく、雑貨なども展示している企画でした。私はそのコーナー入口に入ってすぐ、この小さな絵を見つけました。私を惹きつけるものを感じたからですが、近寄ってみると「まさか前川氏の絵ではないよな・・・」と思いつつ、確かめるとサインを見つけ、驚いてしまいました。実は、この絵に出会う三週間ほど前に別の画廊で前川画伯の別の原画に触れる機会があっただけではなく、ご本人ともお会いしたということがあったのです。その際のご自身の言葉として「具象画としてでも抽象画としてでも、どちらで見てもらってかまわない」という旨のコメントを頂きました。その絵は動物が題材ではなかったのですが、私は、自分がチャットGPT禍にあって、絵画もAIがやってしまうのではないか?など、そういう見方、意識が支配的な時期でした。AIと創作、AIと表現、そんなテーマが日々自分の中を駆け巡っていたわけです。私はアート市の猫の絵を見つけ、すぐ前川氏の別の画廊で接した絵を触発されたのは、その色合いとマチエールです。私はインスパイアされ「発光」したというわけです。

絵画を「作家論」で読む

さて、ここで考えたいのは、これも作家論ではないか、ということです。私はこの猫の可愛らしさなどではなく、緑色の背景の色調と赤みがかった茶の猫の色調、質感、そういう感じに惹かれるのです。この絵についても前川氏の「具象画としてでも、抽象画としてでも」という意図を感じるのは、「緑色の背景のある猫」というタイトルにもそれを思わせるものがあるからです。もちろん猫はお好きなのでしょうが、「猫かわいい、かわいい」だけではない距離感、タイトルとしては素っ気ないと思ったのでした。これは、例えば猫の名前や表情や機嫌をタイトルにしていない、といった意味合いでです。

たまたま、ご本人とお会いする機会があり、絵に対するご意向を私が知っていたことで、私の猫の絵に対する読解が生じたという点で、作家論と言っているわけです。もし、この猫の絵については、氏がそういうお考えはないということでも、読者(私)の一作家論(推測)にはなるのでは、と思います。
この時、作者の趣旨探求に深耕すれば作家論ですし、そこは拘らずに自分の「発光」を意味づけすれば鑑賞者論(読解者論)になるのではないか、と考えられます。

同様に音楽についても、作詞・作曲についても(作詞にはテクストがあることですし)、読解・解釈ができ、すなわち作家論もテクスト論も有り得ることと考えられます。作家論読者論については、絵画も音楽も、その対象についての「論」であることを確認しておきたいと思います。

絵画と音楽のどちらも、仮に生成AIが制作できてしまったとしても、作者の「発光」があっての創作ですし、それとは別に鑑賞者や聴取者の「発光」があって、理解され解釈されるのだと考えます。しかし、ここは私がチャットGPTの場合で考えたことからくる発想で、生成AIによる絵画や音楽づくりについては、これ以上は詳述することができません。

新説「キャッツ・アイ」論

生成AIが、巧みにリライトやリピートすることはできるとしても、「発光」という人間としての動機が持てない以上、制作は行ない得ても創作をもたらすことは難しいのではないでしょうか。「発光」は「創造」と同義であり、読者やリスナーの「発光」も「創造」と同義でしょう。ここは、チャットGPTと同じように触れておきます。

入口を入ってすぐこの絵に気がついた。かなりの
躊躇の後で、スタッフに撮影許可を求めた

私は、小説に限らず批評に限らず、絵画に限らず、音楽に限らず、私の内部に「発光」する瞬間に価値を置いています。自分がこのブログのような駄文を着想した時は「発光」に見舞われます。最も美しい猫目効果とされるクリソリベルキャッツ・アイは、価値ある宝石と知りました。私にとっての「読み」「書き」は、とても価値ある営為です。さらに、クリソリベルの石言葉には、存在の意味があるそうです。前川画伯の「緑の背景のある猫」に邂逅した時は、絵と接して「発光」したことが、こうして一つのエッセイの「発光」を懐胎していたとは、今となって気がつきますが、アート展で出会ったあの瞬間にまっすぐつながっていて、それは美しい猫目石の輝きに満ちています。★


補足
(*)
本文中「金閣寺」について私のテクスト論的解釈を述べている件がありますが、作者がそういう意図を持っていたかどうかに焦点を合わせています。しかし、このことによってテクスト論とは言えません。テクスト論は、作者を切り離した上での間テクスト性などにより論じられるべきものです。これは、著者の別の意図としての解釈例ですが、そうではなく、私という読者の解釈として語るとするならテクスト論と言えるのかもしれません。

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