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Ph.D.苫米地アゲイン

─ 「お花畑」が戦争を招く ⑪

前回、苫米地英人著「真説・国防論」に沿って、自分の知識を修正して、国防について「お花畑が戦争を招く⑩」として「日本の『孫子』─苫米地英人」をまとめてみました。氏の国防論は正鵠を射ていると思われ、非常に参考になったと考えています。しかし、どうしても引っ掛かっていることがあり、ここを避けて国防論もないだろうということで、この記事ではその部分を掘り下げてみたいと思っています。

「アクセス権」とは何か?

「はじめに」からスタートして全6章で構成される「真説・国防論」中、「第4章 世界の軍事の現状を考える」があり、その末尾パートの見出しは「経済戦争における国防とは何か?」が出てきます。そこで氏は「巨大な人口と資本を持つアメリカと中国という二大国に経済戦争で勝利することは不可能だという結論」とし、「ただし、勝てはしなくても、負けない方法はあります。それは、『アクセス権の平等性を堅持すること』(p180)と叙述されています。

これだけではよくわかりませんので氏自身の説明を以下引用します。引用が長くなってしまいますが、原著にあたれない方にも、この引用部分からだけでも、氏の意図を推察頂けないかという思いなのです。私の理解を超える意味があれば、コメントで指摘頂きたいとまで考えています。

「どういうことか説明しましょう。まず、大前提として理解しなくてはならないのが、『世界は誰のものでもない』ということです。今、中国人が日本のリゾート地やタワーマンション、水源などを買いあさっていても、10年後に中国という国が存在しているかは誰も保証できません。・・・中略・・・つまり、この世に未来永劫固定された、絶対的なものなどないのです。ですから、一時の所有権、オーナーシップがどこにあるかは本質的な問題ではありません。問題となるのは、そのオーナーが使用者に対してアクセスを制限した場合です。」(p181)だそうです。

これ、私にはよくわかりません。もう少し引用してみます。

日本人がだいすきなゲームの一つ

「たとえば、北朝鮮人がオーナーだからといって、パチンコ店が取り締まりにあうことはありません。ですが、そのオーナーが日本人には遊戯させないとなれば問題となります。同様に、中国人オーナーのタワーマンションが、中国人以外入居お断りとしたら即座に社会問題化するでしょう。
つまり、重要なのは所有権よりも、サービスや商品に対して誰もが平等にアクセスできる環境。そもそも経済は国境を越えた活動ですから、オーナーシップの国籍などは問題になり得ないのです。」(p181~p182)

そうでしょうか。この辺のことはあまり考えたことがないので、いまいちピンとこないというのが正直なところです。長くなりましたが、もう少しだけ引用してみます。

「中国が日本の水源地を買いあさり、水資源を根こそぎ中国に持っていったら問題ですが、日本人が平等に水を利用できるのならば、それは単なるビジネスです。それに苦情を言い始めたら、海外に工場を作って現地の安い労働資源を買い叩いている企業は、すべて批判の対象となります。」(p182)
~中略~

「これは尖閣諸島や竹島においても、原理的には同じことです。竹島は日本の領土だと政府は認識していますから、韓国人しか住んでいなくても、それ自体に文句は言いません。抗議するのは、韓国政府が自国の領土だと主張する限りにおいてです。」(p183)
~(中略)~

中華人民共和国、共和国?

「同様に、日本の領土という線引きさえ揺るがなければ、尖閣諸島の土地を中国人が買っても問題ありません。そこを自分の領土だとか軍事基地を建設するだとか言い始めたら、即座に自衛隊によって排除すればいいだけの話です。(p183)」

というわけで、「経済戦争においては、必ずしも勝者となる必要はない。日本の国防においては、『負けない立ち回り』が重要なのです。」(p184)と第4章が締め括られます。

どうでしょうか。ここに至っても、私にはよく理解できません。
この考え方なら、もし中国が日本を所有しても、日本がこの国土をレンタルできるなら、何も変わらない、ということになりはしないでしょうか。そう思ってみると、現在日本はアメリカに支配されつつも、日本国としての自立性はあるのだから、それと同じこと?でしょうか。苫米地論で言えば、日本は真の主権はないのですが、それは、ちょっと脇に置きますが、実質アメリカ合衆国51番目の州といいながら、文化伝統が踏みにじられていないという点では、似非独立国とは言えるのかもしれません。

私は、中学校か高校かで、自国の文化が侵されることを侵略という、と習った記憶があります。このことは、文化伝統が維持され存続されることの重要さを学んだと思っています。しかし、中国の属国となって、日本の皇統、日本語、戸籍などさまざまな制度や、慣習が維持されましょうか。中国は民主主義国家ではありませんよね。まして、苫米地氏は、中国の国家情報法をご存知ですよね。
私には、アクセス権が担保されればいい、とはとても思えないのです。

ここでもう一度氏の論述を精査してみると、「 世界の軍事の現状を考える」第4章最後のパート「経済戦争における国防とは何か?」で展開されているところで、すでに上述の通り長く引用しましたが、経済問題として事例を通じて説明しているのです。ところが「これは尖閣諸島や竹島においても、原理的には同じことです。・・・」と、領土問題にステージを上げています。ちょっと待ってください。領土問題は経済問題か?これは、論理の飛躍か?あるいは、領土問題の経済問題への矮小化か?どちらにしろ、これを同列で捉えることは違うと思いますし、中国は超限戦をしかけているのであり、一気に攻め入る阿呆なことはしないわけで、周辺のあらゆるところから真綿で首を絞めるように、この国をインベージョンしているのでは、ないでしょうか?ドクター苫米地に対し、論理の飛躍があるとか、混濁があるとか、甘いなどと、一素人が言うつもりはありません。誰か氏の論理の正しさを私にご教示してほしい。

コスモポリタンPh.D.苫米地?

中国の国家情報法の法案ができたのは、2017年6月です。「真説・国防論」の出版は同年の12月ですので、このことを氏は当然ご存知と思われます。それ以前に2010年の国防動員法や2015年の国家安全法もあります。
簡単に触れますが、国家安全法は、中国批判をしたり共産党の内情をばらしたりした人は、同国に入った途端捕まる、というものです。石平氏や竹田恒泰氏などが考えられます。二人とも中国に行くことはないでしょう。言論の自由はないわけです。

香港の民主化は夢と潰えました。写真は周庭さん。

香港で起きたことを思い出していただけば、あれか、と浮かぶかもしれません。香港の民主化運動のシンボル的存在周庭(アグネス・チョウ)氏が拘束されたことは記憶に新しい。
国防動員法は、中国共産党の指示が出れば外国にいる者も、その指示で動かなければならない、というものです。
一番新しい2017年の国家情報法は、指示があればそれに従い諜報活動しなければならない、というものです。たとえば、自分ではその気がなくても、自分が勤める日本企業のデータを本国につたえなければならないのです。従わないと、中国にいる家族がひどいことになります。簡単に言って、世界に散っている中国人は、すべてスパイや民兵になり得るというしくみ、ということになりましょう。他国にいる国民を自国の法律で縛るという、恐ろしい話です。

先に引用した中にあるように苫米地氏は、「世界は誰のものでもない」と前提しています。私は、こういう考えは、何の動画で見たのか思い出せませんが、成田雄輔氏が「日本という国家にこだわることはないのでは」といった意味のことをコメントしたことが、すぐ浮かびます。苫米地氏も、成田氏も国家観どうなっているの?と思ってしまいます。成田氏の国家観は聞いたことはありませんが、苫米地氏については、「新説・国防論」の中で明確に触れています。「世界は誰のものでもない」というと、最終的には国境とか、国家とかも、ボーダーレスでいいのではないかという考え方の臭いがしてくるのですが、そこにはたぶん直結することはないのだろう、と思います。真の国防の意味とは「外敵から国民を守る」「国民の生活を守る」(p25)と述べていますし、「日本国民にとって『国家=国民』である」(p70)と明確です。

また、自国の防衛に囚われ過ぎるのを戒めるかのように氏は、「現在の中国は、ご存じのように共産党が支配する国です。つまり、中国の国民にとって『国家=共産党』。ゆえに、その共産党を守ることは、国民を守ることと同義なのです。」(p64~p64)というわけです。中国についても、正確に相手を理解すべしと、言われているように聞こえます。このことをもって、中国に対する見方が甘いなどと言うつもりは毛頭ありません。氏は、中国の危うさを含めて正確に捉えていると思われます。

しかし、氏のアクセス権の平等さえあれば問題ないとは、理解できません。私の考えでは、所有は支配の始まりです。国家情報法等、世にも不埒な法律を作り、世界にサイレントばかりではなく、ノイジー含めてインベージョンを仕掛けるこの国の支配への漸進は、恐るべしと考えています。このことは、氏の言われるアクセス権があればいい、という真の意味合いを私が理解しかねている部分があるかも知れない、とも思っています。そこは、IQ 200超えかつ、Ph.D.の方ですから、それは、今後も注視するとして、この稿ではこのまま論を進めます。
(冒頭で氏の言われる私の気づき得ぬ意味合いがあるとしたら、それをコメントでご教示頂きたいとは、このことです。私自身の「お花畑」化を回避したい思いです。)

これでもアクセス権があれば大丈夫?

恐ろしきもの それは中国

すでに述べたように、中国もアメリカのように民主国家なら、伝統も文化もレンタル生活は有り得るのでしょう。しかし、それは中国に対しては言えないこととしか考えられません。「庇を貸して母屋を取られる」類いになるのではと懸念されます。そう考えると軒先は貸してはいけないと、帰結されます。しかし日本国の実態は、すでにとんでもないことになっています。母屋を取るためにこそ、彼の国は浸透していることが明らかではないのでしょうか。それでも、苫米地氏は、アクセス権があればいい、というのでしょうか?

彼の国の、支配への根回しは、石平氏の言論に触れるに及ばず、日常的にアップされてくるネットニュースや、記事に接しているだけで、盛り沢山あります。とりわけ、水源地などの「所有」の進捗事例はさておいても、近年露呈している日本人そのものの傀儡化とでもいうべき親中化戦略です。換言すれば、日本人「お花畑」化政策です。

コロナ禍時には、小池百合子が本来は都民のために装備された感染症対策備品をかの国にプレゼントしてしまいました。習近平の部下となってしまいました。それを実現した上で、日本国の長になる算段だったのでしょうか。最近は、神宮外苑や葛西臨海公園を破壊しようとしています。それも、かの国からの指令だったりして。何故、この国の財産を抹消しようとするのか。明治の人々がどれだけの思いで神宮の森を作ったことか。あれこそは、日本人の魂が結晶した世界に誇れる文化遺産だと、何故わからないか?中国製メガソーラーパネルを敷き詰めて、中国化促進に寄与しようとするわけですか!

また、昨年同じようなことで橋下徹がクローズアップされました。これは、私自身のブログで取り上げたのでもう、触れません。名前を聞いただけで気分が悪くなります。行なったことは、一帯一路という国策への協力ということですから、見上げたものです。
その他親中漬けの、浅漬けから古漬けまで国会議員や地方議員や学者やマスコミ人等々。
「お花畑」人がどんどん咲き誇っています。

中国の正義について、以下石平氏を参照してみます。「中国にとっては、1840年のアヘン戦争から、1945年の日中戦争の終結まで約100年間にわたって、西洋列強と日本から屈辱を受けてきたという認識が消えるわけでは」(*p51)ない、と叙述しています。「屈辱感から生じた『力』に加え、古くからある『中華秩序』の回復こそが、中国がアジアを侵略、支配するに十分な理由になると中国は強く思っているわけです。・・・中略・・・これは中国が成し遂げなければならない歴史的な使命であり、イデオロギーなのです。」(*p58)というように、こんな国家に対して「アクセスの平等性堅持」で済まされることでしょうか?

日本は難民条約加盟国

国家観にとって人種はどうよ

私は、40数年ぶりに帰った街に外国人が増えて唖然としています。素直にそう思います。
微妙な話柄になるので慎重になりますが、そもそもあまり話題になったり、読んだりした記憶がありません。日本国について考えるにあたり、人種構成はどう考えたらいいのでしょうか。

近年はっきりしていることは、外国人をどんどん入れる方向での政策の進捗です。
故安倍首相も外国企業が世界一入りやすい国をめざしていましたし、最近は優秀な人材を海外から、という政策が報道されています。特に、アメリカなどのように400年程度の歴史で人種の坩堝と化している国とは対蹠的に、日本は2000年以上ほぼ単一民族国家として歩んでいるわけです(**)。もちろん100%ということではありませんが。

これは、世界観、地球観、生物学等々、どのような観点から論じればいいのか、直感的にはフィロソフィーの問題になるのかもしれません。それなら、苫米地先生の見解を知りたいところですが、まだ、その言論には出合っていません。素人としては、野放図に移民を受け入れるのは問題があると思うし、メドとなる構成比率を設定すればなどと国家が言った途端、世界からバッシングを受ける類いのことなのでしょうか?非常に単純に考えて、日本における日本人の人口が半分以下になったらそれは、果たして日本といえるのか?という気がします。心情的には95%以下でも疑問です。このあたりの「論」が出ていないのはどういうことでしょうか?まだ「喫緊の課題」になっていない程度のことなのか、戦争や貧困で難民を受け入れなければならない地球事情にあって、迂闊に制限を話題にすることなどはタブーなのでしょうか?
ここ一年国家観についてスタディしてきたつもりですが、国家を規定したり、定義するにあたり、人種構成のテーマが立ちはだかってきているように思えます。

諸葛孔明待望論

話頭を転じますが、さて、この文脈で中国史を持ち出さなければならないのはいかがとは思うものの、日本があの国を参照してきたことも事実です。前回私は、苫米地英人氏を孫武の「孫子」と見立てました。参謀はいるとして、では、この国を牽引できるリーダーはいるのでしょうか。残念ながら、K首相では誰が見ても「ごめんなさい」でしょう。アメリカにへつらうのではなく、対等に交渉し、戦略的に遠謀深慮を張り巡らせることのできる器·····。

ここに至って諸葛孔明を持ち出すのは理由があります。一つには、安倍晋三暗殺による損失の大きさと、奈良県警の不手際への怒りでリアリズムが転倒してしまった(歴史上の人物への傾斜)ということであり、二つには、地理的に隣接する大陸国家との歴史的な悪縁良縁の呪縛であり、三つには、これは東谷暁氏の著書「戦略的思考の虚妄」による結論により、これまでのわが国の戦略の失敗を返上したい意図からのもので、「戦略とは政治の手段であり、政治の目的を実現するために戦略があるというのはクラウゼヴィッツ以来の真理であるにしても、その政治の目的を決めるのは誰であり、戦略を策定するのは誰なのか、そのことが問われないかぎり、戦略の議論は無意味だろう。」(***同著p270)というわけで、戦略の主体性の回復を求めているという三点からです。

日本にとって安倍晋三を失ったことは、今後のこの国の命運に関わってくるのかもしれません。妄想ですが、存命であれば首相として再々登板もあり得た機会を封じた「見えない敵」の意思を感じるのは私だけでしょうか?

前回のブログで孫武による「孫子」に匹敵すると、Ph.D.苫米地の「真説・国防論」を取り上げ、今回諸葛孔明を待望すると述べ、このことによって、確かな兵法と卓越した政治家・軍師とによってわが国の最強の防衛論としたかったところですが、「アクセス権」については課題として残っています。★

(「お花畑」が戦争を招く⑫ 次回投稿予定)

注釈
本記事内の引用中「中略」とあるのは、本ブログ筆者によるものです。
**
「単一民族国家」かどうかは、学術的には未確認です。

 参考文献
・苫米地英人著「真説・国防論」2017年12月
     TAC出版

・石平著「教えて石平さん。日本はもうすで      に中国にのっとられているって本当です          か?」2017年8月  SB新書
***
・東谷暁著「戦略的思考の虚妄」2016年7月
    筑摩書房


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