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「パン裂き」にある5つの確認と5つの益

パン裂き・聖餐は、主イエスが十字架直前の晩餐に、弟子たちに命じた神の定めである。これを行うことの意味、またそこにあるキリスト者の祝福を考察する。

@マタイ 26:26-29 
@マルコ 14:22-25 
@ルカ  22:14-20  
@ヨハネ 6:53-58  
@Ⅰコリント 11:23-32


主を記念する

@Ⅰコリント 11:24
聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [11]章
1コリ 11:24 感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」
1コリ 11:25 食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」


新改訳は「覚えて」、口語訳、新共同訳では「記念」、英語の訳では「 memory 」、「remembrance」となっている。

神は旧約時代に、イスラエル民族と契約(シナイ契約)を結ばれ、モーセ律法を与えられた。
それは「善悪の知識の木」を選び取った人が、人の善悪の価値基準による行いにおいて、神の基準を満たすことはないことを証明し、新しい契約(エレミヤ31:31)への養育係とされた。

そのモーセ律法において、神は御自身の成された御業、またイスラエル民族との関係性を思い起こさせるために、さまざまな「祭り」を定められた。
これは人間が時間と空間に存在しており、時の流れとともに記憶が薄れていくためである。

新約時代に生かされるキリスト者は、イエス・キリストが「記念せよ」と言われたことに従い、この食卓を持って、主を記念し、交わりを保つ。



5つの確認

①神が「人となられた」ことを覚える

神が、人と同じようになられた。
これは、無限を有限に、永遠を時間に、収めることであり、私たちの理解を超える。


@創世記21:33
聖書協会・共同訳 創世記 [21]章
創 21:33 アブラハムはベエル・シェバに一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の名を呼んだ。

「永遠の神/エル・オラム」:時空間を超えた領域の神


@ピリピ2:6-9
聖書協会・共同訳 フィリピの信徒への手紙 [2]章
フィリ 2:6 キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
フィリ 2:7 かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
フィリ 2:8 へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。
フィリ 2:9 このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
フィリ 2:10 それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
フィリ 2:11 すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。


②神が「人を経験された」ことを覚える

神が、人として地上を歩まれた。無力な赤子として生まれ、両親の権威に従い、人として肉体の痛み、精神の痛みを味わい、様々な誘惑に会い、「人」を経験された。故に、人を理解してくださる。


@へブル4:14-16
聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [4]章
ヘブ 4:14 さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。
ヘブ 4:15 この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。
ヘブ 4:16 それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。


@Ⅰヨハネ2:1
聖書協会・共同訳 ヨハネの手紙 一 [2]章
1ヨハ 2:1 私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。



③イエスの「傷」を覚える

主イエスは、私たちの身代わりとして、傷を受けられた。

頭にはイバラの冠(@マルコ15:17)

背中には鞭打ち(@マルコ15:15)

手足には釘(@ヨハネ20:25)

脇腹には槍(@ヨハネ19:34)

その傷の故に私たちはいやされた。

@Ⅰペテロ 2:24
聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [2]章
1ペト 2:24 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。


④「流された血」を覚える

罪の代償として、血が流されなければならない。
これは神の定めであり、創世記3:20から表されている「贖い」。

@ヘブル 9:22 
聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [9]章
ヘブ 9:22 こうして、律法によれば、ほとんどすべてのものが血で清められます。血を流すことなしには赦しはありえないのです。


@Ⅰヨハネ1:7
聖書協会・共同訳 ヨハネの手紙 一 [1]章
1ヨハ 1:7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。


⑤主の死を告げる

@Ⅰコリント11:26
聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [11]章
1コリ 11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 (「宣告」また「宣言」)

@Ⅰコリント15:3-5
聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [15]章
1コリ 15:3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、
1コリ 15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
1コリ 15:5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。



5つの益

この記念の「パン裂き」を持つ毎に、私たちは、主イエスを思い起こす。
その結果、私たちはどのような益を得るだろうか。


①世との分離

私たちは、血によって購われた存在であるが、「肉」(魂+体)に従ってしまいやすく、世と妥協した歩みをしてしまう。私たちが記念の食卓を持つときに、主の血潮の贖いを思い起こし、世の罪悪と共調することはできなくなる。

@ローマ 12:2
聖書協会・共同訳 ローマの信徒への手紙 [12]章
ロマ 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。

@ガラテヤ 6:14
聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [6]章
ガラ 6:14 しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。

@Ⅰヨハネ2:15-17
聖書協会・共同訳 ヨハネの手紙 一 [2]章
1ヨハ 2:15 世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。
1ヨハ 2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。
1ヨハ 2:17 世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。


②受け入れ

ともに食卓に預かるとき、互いが同じ主に購われたもの、互いが赦された存在であることを思い起こす。そこでは、互いへの赦しを持たざるを得ない。

@ローマ 15:5-7
聖書協会・共同訳 ローマの信徒への手紙 [15]章
ロマ 15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
ロマ 15:6 心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
◆福音はユダヤ人と異邦人のためにある
ロマ 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。


@Ⅰコリント12:12-27
聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [12]章
1コリ 12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。
1コリ 12:13 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
1コリ 12:14 実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
1コリ 12:15 足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
1コリ 12:16 耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
1コリ 12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。
1コリ 12:18 そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
1コリ 12:19 すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。
1コリ 12:20 しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。
1コリ 12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
1コリ 12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
1コリ 12:23 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。
1コリ 12:24 しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。
1コリ 12:25 それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。
1コリ 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
1コリ 12:27 あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。


@ピリピ 2:3-4
聖書協会・共同訳 フィリピの信徒への手紙 [2]章
フィリ 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
フィリ 2:4 めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。


@コロサイ 3:12-14
聖書協会・共同訳 コロサイの信徒への手紙 [3]章
コロ 3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロ 3:13 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
コロ 3:14 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。


③イスラエル背景の回復

聖書は、イスラエル民族の歴史背景において書かれており、それを知ることにより、御言葉の理解が進む。


@ヨハネ伝4:22
聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [4]章
ヨハ 4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。


@エぺソ 2:11-13
聖書協会・共同訳 エフェソの信徒への手紙 [2]章
エフェ 2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前は肉において異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
エフェ 2:12 その時、あなたがたはキリストなしに生き、イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者で、世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。
エフェ 2:13 しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。


④十字架の想起

この食卓は、主イエスの「死」を宣言する。それはたった一度の十字架での「死」であり、その向こうには「復活」がある。主の「死」を宣言するとき、それは「十字架」を指し示し、「復活」に導く。


@ガラテヤ 2:19-20
聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [2]章
ガラ 2:19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
ガラ 2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
*「神の子の真実」⇒神の子のピスティス(信・忠・誠)

@ローマ 6:6-8
聖書協会・共同訳 ローマの信徒への手紙 [6]章
ロマ 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
ロマ 6:4 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
ロマ 6:5 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
ロマ 6:6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
ロマ 6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。
ロマ 6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。


@Ⅱコリント5:14-17
聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 二 [5]章
2コリ 5:14 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
2コリ 5:15 その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
2コリ 5:16 それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
2コリ 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。



⑤再臨の希望

主イエス・キリストは、再び来られる。
「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

@Ⅰテサロニケ 4:13-18
聖書協会・共同訳 テサロニケの信徒への手紙 一 [4]章
1テサ 4:13 きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
1テサ 4:14 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
1テサ 4:15 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。
1テサ 4:16 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、
1テサ 4:17 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
1テサ 4:18 ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。


@ピリピ 3:20ー21
聖書協会・共同訳 フィリピの信徒への手紙 [3]章
フィリ 3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
フィリ 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。


@ユダ 14-15
聖書協会・共同訳 ユダの手紙
ユダ 0:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は幾万の聖なる者たちを引き連れて来られる。
ユダ 0:15 すべての人に裁きを行うため、神を畏れぬ者たちが犯したすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人が主に対して口にしたすべての暴言とを罪に定めるためである。」


@啓示録 19:11-14
聖書協会・共同訳 ヨハネの黙示録 [19]章
黙 19:11 それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。
黙 19:12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。
黙 19:13 この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
黙 19:14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。


追記


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