見出し画像

霊の実

@ガラテヤ5:22ー25【恊共訳】
5:22 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
5:25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。


①「実」はひとつ

「実」は単数形。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は「実」の性質を表現したものであり、九つの性質があるひとつの「実」。

この「実」は、キリスト者の「魂」に形成される「キリスト」。


@ガラテヤ4:19【恊共訳】
4:19 私の子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。


②「霊の実」

新改訳、口語訳、エマオ訳では「御霊の実」と訳されているが、「御霊」は「聖霊」と同義で用いられるので、誤解を招く。
恊共訳、新共同訳、岩波訳、回復訳の「霊の実」が適訳。


③「魂の救い」の結実

キリスト者の「霊」には「御子の霊」が内住しており、それはもはや罪を犯すことがない。


@Ⅰヨハネ5:18【恊共訳】
5:18 神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。


*神から生まれた者=神から生まれたもの(単数形)=キリスト者の「霊」

キリスト者は「霊」においては罪を犯さないが、「魂」においては罪を犯す可能性を持ち続ける。


神の創造の秩序による人の機能は、人の「霊」が機能して神と交わりを持ち、「霊」の支配下にある「魂」が「知・情・意」の内的活動をし、「魂」が「体」を使役すること。

生まれながらの人は、「霊」が死んで(機能停止・機能不全)おり、「魂」を肥大させて生存し、世(創造主を認めない思考また価値観の構造)に順応している。

そのために「霊」が新生したキリスト者が、神の支配=天の御国に生きるためには、「魂」への処置が必要であり、その処置の結果として「霊の実」が、「魂」に現れる。


④魂への処置

「魂」への処置は、カルバリの十字架におけるイエス・キリストの死にともなう自己の死を認めること(ローマ6:3-11、ガラテヤ2:20)から始まり、霊と魂の切り分け(へブル4:12)を求めることで継続する。


@ローマ6:3-11【恊共訳】
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
ロマ 6:4 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
ロマ 6:5 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
ロマ 6:6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
ロマ 6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。
ロマ 6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
ロマ 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
ロマ 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
ロマ 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。


@ガラテヤ2:19-20【恊共訳】
ガラ 2:19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
ガラ 2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。

*神の子の真実 ⇒ 神の御子の信仰


神は、「エル・オラム」=時間と空間の外におられる=「永遠の神」であり(創世記21:33)、へブル7:9-10にあるように、神は時間と空間を超越しておられるので、アブラハムの子孫の誕生前に、そこにいたと見ておられる。同様にすべての人類は、アダムの違反の際に彼の腰の内に存在していたとみておられる。
そしてまた、イエス・キリストを「救い主」として受け入れた人を、キリストの内にあってともに死んだもの、彼の復活の内にあってともに生きているものと、みなされる。



④聖霊による照明

キリスト者は「御子の霊」により「霊」が新生して機能し(ヨハネ20:22)、「聖霊」を受けることができる者とされ(使徒1:4-5)、それは五旬節の日に実現した(使徒2:4)。


@出エジプト27:20ー21【恊共訳】
聖書協会・共同訳 出エジプト記 [27]章
出 27:20 あなたは、イスラエルの人々に命じて、オリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を、あなたのところへ持って来させなさい。灯を絶えずともすためである。
出 27:21 会見の幕屋の中の証しの箱の前にある垂れ幕の手前で、アロンとその子らは、夕暮れから夜明けまで、その灯を主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。


モーセの幕屋は神の定めであり、キリストを表しているとともに、人の構造の型でもある。

聖所は「魂」にあたる。そこには、備えのパンの机(知性=整えられた聖書理解)、金の香壇(感情=祈り、礼拝)、燭台(意思=献身、従順)が表わせられている。

燭台が灯ることで聖所が照らされるように、聖霊の内住により人の「魂」は照らされる。


@詩編18:29【恊共訳】
18:29 主よ、あなたは私の灯をともし/わが神は私の闇を照らす。


@エペソ5:8-17【恊共訳】
5:8 あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。
5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。――
5:10 主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。
5:11 実りのない闇の業に加わらず、むしろそれを明るみに出しなさい。
5:12 彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
5:13 しかし、すべてのものは光によって明るみに出されて、明らかにされます。
5:14 明らかにされるものはみな、光だからです。それゆえ、こう言われています。/「眠っている者よ、起きよ。/死者の中から立ち上がれ。/そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」
5:15 そこで、知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。
5:16 時をよく用いなさい。今は悪い時代だからです。
5:17 だから、愚かにならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。


⑤御言葉への従順

御言葉への従順は、魂の切り分け、ともいえる。


@啓示録3:19【恊共訳】
3:19 私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ。

@Ⅱコリント7:10【恊共訳】
7:10 神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。

*後悔のない悔い改め?
「救いに至る思い改め」もしくは「救いに至る神への回帰」が適当。


神に従順であることに、生まれながらの「魂」は抵抗する。
それは「肉」=(魂+体)=古い人の生存方法、と記述される。


対処は、神のことばによる。

@へブル4:12【恊共訳】
4:12 神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。


「悔い改め」ではなく「思い改め」それは「方向転換」。
自己中心、自己保全の思考から、キリスト中心、キリスト優先の思考に、変換すること。


モーセの幕屋に置かれる燭台には、芯切鋏が伴い、古い部分は切り捨てられる。

@哀歌3:21-25【恊共訳】
3:21 しかし、そのことを心に思い返そう。/それゆえ、私は待ち望む。
3:22 主の慈しみは絶えることがない。/その憐れみは尽きることがない。
3:23 それは朝ごとに新しい。/あなたの真実は尽きることがない。
3:24 「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い/それゆえ、私は主を待ち望む。
3:25 主は、ご自分に希望を置く者に/ご自分を探し求める魂に恵み深い。


@Ⅱコリント3:17-18【恊共訳】
3:17 主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。

*新改訳では「主は御霊」と訳されるが、原語的には「キュリオスは霊」。

当時のローマ帝国において、キュリオスは皇帝の称号のひとつ。
またユダヤ人にとっては、キュリオス=ヤハウェ。


@ヨハネ伝12:24【恊共訳】
12:24 よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。


@マルコ伝8:34ー35【恊共訳】
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
8:35 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。


自己中心また自己保存の価値基準で生きることか、キリスト中心また自己放棄の価値基準で生きることか、の選択。群衆と弟子の分岐点ともいえる。


①愛
十字架を負うこと:自己の優先順位を放棄する。
ルカ伝10:25-35の「良きサマリヤ人」を参照。

@Ⅰコリント13:1ー8a【恊共訳】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
13:3 また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
13:6 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びません。


②喜び

五感の領域の外にある喜び。
十字架を負うこと:世の富、物質的繁栄、金銭欲、を放棄する。

@マタイ伝6:24-33【恊共訳】
6:24 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
6:27 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。


@ピリピ4:12ー13【恊共訳】
4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。


@Ⅰペテロ1:8-9【恊共訳】
1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
1:9 それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。



③平安
安息していること。苦しみ、悩み、恐れ、から自由であること。
十字架を負うこと:自己努力、解決方法、問題意識、の放棄。

@ピリピ4:6-7【恊共訳】
4:6 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。

@へブル4:10【恊共訳】
4:10 実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。


④寛容(忍耐)
異なる価値基準を受け入れられる、他者との障害を耐えられること。
十字架を負うこと:自分の判断を放棄すること。


@伝道者3:1-11【恊共訳】
3:1 天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。
3:2 生まれるに時があり、死ぬに時がある。/植えるに時があり、抜くに時がある。
3:3 殺すに時があり、癒やすに時がある。/壊すに時があり、建てるに時がある。
3:4 泣くに時があり、笑うに時がある。/嘆くに時があり、踊るに時がある。
3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。/抱くに時があり、ほどくに時がある。
3:6 求めるに時があり、失うに時がある。/保つに時があり、放つに時がある。
3:7 裂くに時があり、縫うに時がある。/黙すに時があり、語るに時がある。
3:8 愛するに時があり、憎むに時がある。/戦いの時があり、平和の時がある。
3:9 人が労苦したところで、何の益があろうか。
3:10 私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。
3:11 神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。


@ヤコブ1:3-4【恊共訳】
1:3 信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。
1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。


⑤親切
利他的であり配慮ある態度。
十字架を負うこと:自分の立場、自分の視点を放棄する。

@Ⅰコリント10:23-24【恊共訳】
10:23 すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが人を造り上げるわけではありません。
10:24 誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい。


⑥善意
利他的であり配慮ある行動。
十字架を負うこと:自分の益や必要を放棄すること。

@ローマ12:13-15【恊共訳】
12:13 聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい

⑦信/忠/誠
原語的には、信、忠、誠、は同じ言葉。
「霊の実」の「信」は、内的な献身の姿勢。
周囲や環境がどうであっても変化しない、神への信頼。
十字架を負うこと:自分の能力や経験を放棄すること。


@ルカ伝1:38【恊共訳】
1:38 マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。


@へブル11:1-3【恊共訳】
11:1 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
11:2 昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

11:1別訳
「信とは、ここで願われる実体、まだ見ていない成された事実の現出です」


⑧柔和(謙遜)
制御された力。自己主張せず、状況に対応できる性質。
十字架を負うこと:自分の期待、願望を放棄すること。


@マタイ26:39【恊共訳】
26:39 少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」


@ローマ12:3【恊共訳】
12:3 私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。


⑨自制
欲求や情熱を支配し、偏りを持たない。
十字架を負うこと:自分の「肉」=古い人の生存方法を放棄する。


@ローマ8:12-13【恊共訳】
8:12 それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。


⑩「霊の実」の本質

キリスト者の成熟の表れ。
神と人への献身の表れ。
キリストにある聖さの表れ。
キリストの花嫁としての純潔さの表れ。
エクレシアにおけるリーダー資質の表れ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?