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「生まれ変わったら、庭師になりたい」

わたしが生まれる前から実家の庭にあった木々を、業者に頼んで伐ってもらったと母が電話で言っていた。剪定してくれていた父がいなくなったということと、維持費もかかるし、自分がいつどうなるかもわからないし、「塀を圧迫してるから、伐った方がいいですよ」と、以前、剪定に来てくれた方が言っていたのと、子どもらに迷惑をかけないように、という理由だそう。

庭がさぞかし殺風景になっただろう、と心を痛めていたけれど、帰ってみれば、そんなこともなかった。母が剪定できる小さめの木は残してあったし、母が植えた草花が生きいきとして賑やかで、寂しい庭になってはいなかった。母の手にかかると、緑濃く、元気に育つ。母の友人が家を訪れるたび、「この庭が癒し」と言ってくれるそう。

庭の手入れをしながら、「生まれ変わったら、庭師になりたい」と言った母の言葉が、今回の帰省で一番心に残った。

去年、父が亡くなったとき、わたしの同級生のお母さんが弔問に来てくれ、お墓の周辺の草を父が刈ってくれていた、と聞かされた。そんなことをしてくれる人、他にはいない、ありがたく思っていた、と感謝の言葉を述べられた。高校卒業後に県外に出たわたしは、知らないことだったから、教えてもらえてよかった。

わたしは、人の手が好きだ。色んな人の手仕事によって、世界はまわっていく。

父は家族や親戚のためにも、地域のためにも尽力して、仕事をいっぱいしてこの世から消えた。亡くなる数ヶ月前に、腕のしびれの手術もしていて、働きすぎだったんだろうな、と思います。

いなくなっても、父の精神は大きく残された。


「人は死ぬとき、なにかを残していかねばならない、と祖父はいっていた。子どもでも、本でも、絵でも、家でも、自作の塀でも、手づくりの靴でもいい。草花を植えた庭でもいい。なにか、死んだときに魂の行き場所になるような、なんらかのかたちで手をかけたものを残すのだ。そうすれば、誰かがお前が植えた樹や花を見れば、お前はそこにいることになる。なにをしてもいい、と祖父はいっていたな。お前が手をふれる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいいと。ただ芝を刈るだけの人間と、庭師とのちがいは、ものにどうふれるかのちがいだ、ともいっていた。芝を刈るだけの人間はそこにいないも同然だが、庭師は終生、そこに存在する、とね」

レイ・ブラッドベリ/『華氏451度』グレンジャーのセリフ


お借りした見出し画像は、高知県にあるモネの庭だそうです。何度か行ったことがあります。両親とも訪れたことのある思い出の観光スポットです。
素敵な写真ですね。ありがとうございます。

母の庭にも、睡蓮がたくさん咲いていました。