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福田恆存を勝手に体系化する。2-2 他者とは何か。フッサールを超えて

 冒頭にもどろう。まずもって私は、ものに囲まれている自分に気づく。
 私が軽井沢のコテージの庭に立っているとしよう。足許に目をおとすと草花が見え、しだいに視線を上げてゆくと生垣が視界に入り、その先に白樺の林が広がり、背景には霞んで見える山々がある。われわれはそれらが確かに実在するという確信をもって生きていて、そのパノラマの全体像を実在として意識している。しかしじっさいに把握しているのは、たとえば白樺の木なら、私の視界に見えているこちら側の表面部分だけだ。幹や枝葉の裏側は見えてはいない。われわれはその場合、私に見えていない部分を自動的におぎなって白樺の木の全貌を見た気になっている。じっさいには幹の裏側は削れて欠損しているかもしれないにもかかわらず。フッサールの用語でいえば、幹の裏側は、私の知覚において「共現前」しているということになる。同様に、私の視点から霞む山脈のむこうは見えないにもかかわらず、その先にも世界がひろがっているという確信をもっているのである。

 このようにわれわれは、みずからのパースペクティヴに現前するあらゆる物体について、その普遍的で完全な像というものを自動的に共現前した現象としてうけとっている。おなじように、万人に共通な「全一な世界」というものを、時間的にも空間的にも無意識のうちに共現前させて、日々、生活しているわけである。

 そこに他者が出現する。生垣のむこうから見知らぬ他者があらわれる。それが動物であれ、人間であれ、男であれ女であれ、われわれが最初に判断をせまられるのは、友好的な他者であるか、敵対的な他者であるか、という識別であろう。そこで有効な識別の指標は、フッサールのいう自分とのアナロジーなどではなく、相手の行動のありかた、すなわち身振り口ぶりであるとおもわれる。「こんにちは」と声をかけ会釈をしてくれば、ひとまず安心できるが、こちらを無言で睨みつけてくれば、すぐさま身構える必要がある。

 私の前にたちあらわれる他者に対して、私にはその外見しかとらえることができないのであって、その内面はどこまでも推定的なものにとどまる。それがたとえ親しい隣人であっても、私の内側のような透明性はまるでなく、共現前しているかれのキャラクターもまた、白樺の裏側と同様、推定的であることはまぬかれない。ましてかれの思惑を把握することなどけっしてできはしないのである。親しげな微笑のかげにいかなる悪意がひそんでいるか、だれにもわかるものではない。

 その点、フッサールは、「他我の心的なるもの」は「身体性の外界的な振る舞いにおいて示唆される」といい、ここは同じなのだが、そうした観察が「現実的な連合の絶えざる進行において常に新たな共現前による内実を提供」し、「より高次の心的領域の特定の内容についての感情移入に至る」という。(『デカルト的省察』浜渦辰二訳)
 だがしかし、いくら共現前を積み重ねて総合したところで、それらひとつひとつはそれぞれ推定的なものであり、モナドに窓がない以上、「感情移入」によって他我の内実を把握することなどできはしない。むしろ「より高次の心的領域」になればなるほど、不確定性は増加するはずだ。そこには論理の飛躍がある。これを詭弁と決めつけることはできないにしても、まさに詭弁同然であると私はおもう。

 それにたいして、福田恆存における「他者」とは、「私」と同類であると仮定しても、いやそれだからこそ、不透明な存在者として規定される。というのもかれは、もっとも知り難いのは自己であると考えているからである。オルテガとの決定的なちがいは、福田恆存は自己を透明性のある明証的なものだとは考えていない点にある。それはたぶん、他者によって喚起された自己はもう一つの「他者」としてまずその存在様式を獲得するからである。さらにいえば、かれにおける「他者」とは、友好的であるか敵対的あるかという判断を要求する問題をはらんだ存在者だという属性をもつ。しかもそれは固定的なものではなく、時間的・空間的な変数としてあらわれる。

 対人関係において、私たちはつねに自分のあるべき位置の測定をおこなつてゐるのです。自分の位置を発見しなければ、自分は存在しさへしないのです。ただ、でたらめに人なかにあるだけなら、それは物体として在るだけです。人間として在るためには、自分の位置を発見しなければならない。そこに居合はせる人たちとの関係を明確に意識して、あるいは無意識のうちにそれを感じとつてゐてこそ、自分ははじめて存在するのです。
                   

「教養について」

 私のまえに他者が出現するとき、私は他者の存在を考慮に入れて行動することを余儀なくされる。かれは私の生きるパースペクティヴを構成する重要な要素となるのだ。かれの登場によって私の生きる状況は根本的な改変をうける。かれとの距離と座標を把握し「自分のあるべき位置の測定を」しなおさなければならない。いっぽう他者においても、私はかれの状況を構成する問題をはらんだ一要素であると考えられる。つまり相互に相手を排除しながらも、同時に相手を包括する相対論的関係性が成立するのである。
 こうした他者との関係性は、根本的実在である孤独とはべつに、私のパースペクティヴにおいて、共生というあらたな次元をかたちづくる。前者は個人的自我の次元であり、後者は集団的自我の次元である。

注) 誤解されては困るので、いちおうのべておくと、私はフッサールをいかなる意味においても、下に見ているわけではありません。それどころか、フッサールとディルタイは、その広範な影響力と貢献度を考慮すると不当に扱われ過ぎているとおもっています。実際、かれらが切り開いた地平にさまざまな哲学が育っていった。とりわけフッサールは、哲学史において、デカルト、カントに比すべき画期的な哲学者であると考えます。かれの存在なくして、ハイデガーもオルテガも、そして福田恆存もみずからの思想を紡ぐことはできなかった。
 ただそうした稀代の革新者もまた、かれの生きた時代の子であり、みずからの世代を超え出ることは出来ないというだけのことです。


福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。