好きという感情
私は昔から一度好きになった相手
(友人でも恋愛対象になった人でも…)
なかなか嫌いになることができません。
虐められてきても、パワハラを受けようとも、いびられようとも、嫌な思いがあっても、蓄積していても、
「もしかしたら…」を捨て切ることができません。
だからなのか、なにか誰かとの付き合いの中で拗れが生じた場合、「仲直りする」ことを選びます。
どちらが悪いとかではなく、「自分はここが悪かった、ごめんね。だからあなたと仲直りして、今までみたいに仲良くしたい。」
と伝えてきました。
ある時、父に言われた言葉。
「どうしてお前が悪くないのにへりくだり、謝り、仲を修復できるようにと懇願しなければならないのか?」
私の中ではへりくだったつもりもなければ、仲に拗れが生じたのだから自分に全くの落ち度がないとは考えられない。仲良くしたいと伝えるのは、今までの楽しい時間があったから。
だけど、きっと父の言いたかったことはこうです。
⠀
「友人なはずの相手に、対等ではない扱いを受けて、お前はそれを対等だと思えるのか?その相手は本当にお前のことを友人として見ているのだろうか。」
嫌いになれないのは、嫌いになられたくないから。
嫌いになってしまったら、相手から嫌われるかも知れないことが怖いから。
「ずっと好きでいられる」という自分が欲しいから。
だって、ずっと好きでいることって相手に敵意はないですよって伝えられる強みだと思って…
でもきっと、そういうことではないんですよね。
「ずっと好きでいられることが素敵」なのではない。
まだ自分自身で納得できていない部分なので、あえて「ある意味」と書きます。
ある意味、執着なんだろうと思います。
きっと本当に素敵なのは
ずっと皆んな(関わった人)が好き
ではなくて、
「好きな人との沈黙の間、自分が飲み込まれず不安も持たずに過ごせる人との関係を大事に築くこと」
なのかな、と思いました。
思うだけでなかなか難しいです。
ただ、こうして言葉にすること、こうして自分の中を整理していくことは、自分にとってとても重要で、なおかつ、捉え方などの視野を広げるための準備になっているだろうと思い、ここに綴ります。
難しい、と思いつつも、実際の今の気持ちは、
「仲直りできなかったのなら、それは仕方ないことだ」
そう思えています。
もちろん、繰り返し不安はやってきたり、やっぱり仲直りできたらと願ったりします。
しかし、ここまで思えるようになったのも、ここで考えながら整理しようとした結果だと思いました。
ずっと皆んな好き、でいられる方がいるとしたら、素敵だと思います。
そんな風に私もなりたい、そう思うと思います。
けれど、きっと私にはその受容力が足りなかった。
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