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はましゃか/穴喰い男

「嫌な予感がする」男は言った。「嫌な予感がするな。これは一体なんだ? 何もかもすべてが上手くいきっこないって感じさ」
「一体、何がそんなに悪くなるっていうんだい」もうひとりの男が言った。
「わからない。何もかもさ。例えばこのコーヒーは今すぐにでもひっくり返ってこの真っ白なテーブルクロスを汚す。僕のシャツだってしみだらけになる。君が『やれやれ』って顔をしている間に美しい店員がかけよってきてテーブルクロスを取り替え、ひざまずいて僕のシャツを拭く」
「悪い話には聞こえないけどな」
「その店員は僕を見上げて思う、なんてまぬけで、不細工なやつだろうってね」「あんたは不細工なんかじゃない」男は言った。
「仮に、ぶさいく・・・・だとか、手入れが行き届いているだとか、そんな話が本当にあるんだとすればね」木谷きたにはコーヒーをひと口飲み、続けた。
「あんたはコーヒーをこぼしたりなんかしないし、誰かにまぬけ・・・だなんて思われたりしない。それにあそこにモップがある。店員はモップであんたのシャツを拭くかもな」
「そうだな」男は言った。「そうかもしれない」

 その日、贅肉とも筋肉とも無縁な男がランニングマシンの上で眼鏡を曇らせているのを木谷はぼんやりと見ていた。たまに心配になるほどやせ型の男が延々と走りにきてはすぐに見なくなるから、そういうたぐいの気まぐれだろうと思っていた。贅肉とも筋肉とも縁のある木谷にとって、この区民ジムはその両方のバランスを整えるための場所だった。

 休憩所に入ると、まだ眼鏡を曇らせたままの男が自販機の「あったか〜い」の列のボタンを執拗に押していた。耳を赤くして、湯気まで見えるようだった。長机にはおしるこの缶が几帳面に積み上げられていた。ジムでおしるこ? それも何本も? 
 途中、その男は諦めたように立ち尽くした。腕を組み、買ったばかりのおしるこをじっと見ていた。睨んでいた、という表現の方が適切かもしれない。
「飲まないのか?」好奇心に負けて木谷は訊いた。汗を流したあとにおしるこを求める人間の気持ちが知りたかった。
「ずっとこっちを押してるんだ」男は間髪入れず答え、おしるこの隣に並ぶブラックコーヒーを力強く指差した。木谷は汗を流したあとに温かいブラックコーヒーを求める人間の気持ちも知りたくなった。
「なのにこっちが出てくる」男は自分の横にある長机に積み上がったおしるこを指差したが、目線は自販機のコーヒーから逸らさなかった。
「致命的だな」木谷は慎重に言葉を選んだ。
「逆かと思っておしるこを押しても、おしるこが出てくるんだ」
 憤慨している人間から発される無防備な響きは味気ない休憩所をほんの少しだけ和ませたが、当の本人は気がついていないようだった。
「そりゃそうさ、そこはおしるこだからな」
 返事はなかった。
「ずいぶんおしるこ好きな男だと思われているだろうな、自販機にも、ここの人らにも」
「……誰に聞けばいいのか、わからなくて」男は降参するように、か細い声を絞り出した。

 木谷は入り口の名簿に「砂野」という名前を見かけるようになったのを思い出していた。
「あのスナノってのがあんたかな」細く角ばった字と紙に食い込んだ筆跡は、すっかりそのまま目の前にいる男を彷彿とさせた。
「サノと読むんだ。砂に野と書いて」
「そりゃすまない」木谷はサノが尖った鉛筆できりきりと名簿に書き込む様子を想像した。
 二人は並んで座り、ぬるくなったおしるこの缶を開けた。甘ったるく、どろどろとした舌触りに木谷は思わず顔をしかめた。サノは顔色ひとつ変えず続けて二缶飲み干したあとに「嫌な予感がする。こういうことが毎日続くような気がするんだ」と言った。

 それからというもの、木谷はジムの帰りにサノをあちこち連れ回した。サノは文句ひとつ言わずついてきた。木谷はサノの話を聞くのが好きだった。喫茶店やそば屋、大衆居酒屋やバー、サノはところかまわず「嫌な予感」を打ち明けた。それはふざけた内容だったり、つじつまが合わない話もあったが、とにかくただの一度も当たったことがなかった。サノが一貫して深刻そうに話すのを、木谷はたっぷりのユーモアと愛情を込めて「予言」と呼んだ。サノは心から何かにおびえているように見えた。木谷はそれを最後まで聞いてやり、「世界一暗いスタンダップコメディの大会があったら優勝してるな」などと軽口を叩くとサノはほっとした顔を見せた。その顔を見るたび、木谷は何か替えのきかない善いことをしている気分になった。

「嫌な予感がする」サノは言った。「嫌な予感がするな」
 待ってましたとばかりに木谷はコーヒーカップを置いた。
「今日はどんなだ? 大怪獣が街を襲うか? それともこの店に強盗が入ってあんたを人質にとるなら見ものだな」
「たとえば僕はこのあと入って来る客と恋に落ちて、それが運命だと思う」
「またどうしてあんたってやつはそう簡単に恋に落っこっちまうんだ。それでふられるって話だろう、もっと他のはないのか」
「ふられない」サノは言った。
「運命の相手と僕はいつまでも幸せに暮らす。ただ、」
「ただ?」
「そのひとは僕の下半身に名前をつける」
「最悪だ」木谷は小さな悲鳴を漏らした。「今まで聞いたあんたの予言で一番最悪だよ」
「そのひとは僕の下半身と友達になって僕には聞こえないヒソヒソ声で内緒話までする」
「良い趣味してる」
「僕が真剣に欲情してるときも、そのお友達とおしゃべりするんだ。それで僕は萎えちまう。そのひとはあきらめず、お友達にむかって六甲颪ろっこうおろしを歌い出す」
「おぞましい、真剣な欲情の次に」木谷は付け足した。
「僕はそのひとと寝られなくなる」サノは言った。「そしてそのひとは君とも寝る」
 その一言は木谷に前妻のことを思い出させた。それはあまりいい思い出ではなかった。
「誰が誰と寝るとか、そういう話は冗談だとしても聞いてて楽しくないな」
「君を楽しませようと思って言っているわけじゃない」
「大予言者も、客商売だってこと忘れちゃいけない」木谷は忠告するように言った。
「口に出すことが必要なんだ。多分、君にとっても、世の中にとっても」
「そしてどうなった? 何も起こっちゃいない。ノストラダムスだの何だのって、ああいうのは大概外れるんだ」
「口に出せなかった予感は、必ず当たってきた」
 木谷は笑った。「後出しじゃんけんでいいなら占い師も楽だろうな」
「何のためかわからないけれど、本当にあるんだ。あるというより来る、嫌な予感としか言い表せない何かだ。そのしらせ・・・を言葉にして、こうやって君に伝える。口にできれば、もう追い払えてる。でも、できなければ、そのときは必ず」
 サノは口をつぐんだ。口の中で何かと揉めているようだった。
「──当たるんだ」
「今ここが喫茶店で、おれが聞き役だったのが幸運だな」
「信じてもらえるなんて思っていないよ。信じてほしいともね」サノは付け加えた。
「だからっておれを巻き込まないでくれよ」木谷はソファ席の背もたれに寄りかかった。
「いいか、どんな話をするのも自由だが、こんな話で茶を飲むのはごめんだよ」
 木谷は伝票を確認して、紙幣と小銭をテーブルに置いた。
「そうだろうな」サノは言った。「僕もごめんだ」
「カフェインのとりすぎさ。ちかごろじゃノンカフェインなんてとんちきなコーヒーもあるらしいぜ」木谷は上着を手に取った。
「考えてみれば、あれはちくわとか、ドーナツみたいなたぐいなのかもしれないな」
「ちくわ?」サノは木谷の言葉を繰り返した。
「そうさ、あれはみんな、穴の部分を食べているんだよ」
「穴を食べる」
「そうさ。穴なんてのは食べようと思って食べられるもんじゃないからな。でも食べ終わったときには、その穴はすっかりなくなっている。だからあんたは、気づかないうちに穴を食べてる」
 木谷は言葉がすらすら出てくるのに身を任せた。何かが木谷をそうさせていた。
「どっかのお偉いさんが勘づいたのさ。みんな穴ぼこさえ用意すれば喜んで飛びついてくるってな。それで今じゃそこらじゅう、ノンシュガーだのノンカロリーだのって、ああいう得体のしれないもんがはびこっているってわけさ。まったく、なんのためにあるんだか」
「さっぱりだな」サノは観念したようだった。「さっぱりわかりゃしない」

 サノがジムに姿を見せなくなって数週間が経ち、ようやく木谷はサノの連絡先も何もかも知らないことに気がついた。受付のスタッフに何度か尋ねると、「本当はこういうことやっちゃいけないんですけど」と前置きがあり、面倒そうに木谷宛だというメモ紙を渡された。そこにはサノの筆跡で電話番号が書いてあった。何度かしつこくかけたが、話し中を知らせる音が聞こえるだけだった。そうするうち、サノについて考えることはなくなっていった。

「それで?」マスターは訊いた。
「それきりさ」木谷は答えた。
「それきりってことはないだろう」
 なぜその夜、突然サノのことを思い出し、人に話したくなったのか、木谷には見当もつかない。電車のホームで自動販売機が入れ替えられているのを見かけたからか、木谷の体重が自己最高記録を更新したからか、その日のマスターが誰よりも聞き上手だったからか。いずれにせよ木谷はサノの話をし、これまで誰にも話したことのない部分に差しかかろうとしていた。
「そのままあいつは消えちまった」木谷は続けた。「それもジムで」
「消えた?」
「ああそうさ」木谷は続けた。
「ジムで?」
「そうだ。証拠もある。入館した記録だけが残っていた。ジムから出てないんだ。あいつが名簿を書き忘れるなんてことはない」
「紙の名簿か」マスターは言った。「いい時代だ」
「おれはスタッフに問い詰めた。そしたら一人が吐いたんだ」
 マスターは黙って聞いていた。
「シャワー室に入って、そのまま消えちまったんだとさ」
「帰ったんじゃないのか?」マスターは言った。
「いいや、確かだ。服はあったんだ。ただ、スタッフが言うには、」
 木谷は言葉に詰まった。
「服が、ドーナツみたいに落ちてたらしいんだ」

 その晩、二日酔い特有の頭痛で目を覚ますと、留守番電話を知らせる光がうすぼんやりと木谷の寝室を照らしていた。木谷の妻は隣で静かに寝息を立てていた。携帯電話を耳に当てると、ところどころ電波が途切れるような雑音が入っていた。木谷はもう片方の耳を塞ぎ、冷たい床の廊下まで移動しなければいけなかった。
 それがサノの声だと気がついたとき、木谷は全身の毛が逆立つのを感じた。その声は何キロメートルも遠くから聞こえているようにも、分厚い防音壁を挟んだすぐ隣から聞こえているようにも感じられた。
「木谷、君のおかげで僕はいくつかの、いや、いくつもの災いから逃れることができた。僕なりの厄除けは確かに効いていた。君の穴の話を聞いたとき、それがわかった」
 サノの声は当時のままだった。ただ、じっとりとした暗がりの中でくぐもった声だけがにぶく響いているようだった。
「ひとには決められたときに落ちるべき穴みたいなものがある。僕はそれを先送りにした。償いは、僕ひとりでしなくてはならない。君を巻き込むことはできない」
 木谷は学生時代に下水道工事の警備のアルバイトをしていたことを思い出した。体力を余らせ、昼夜逆転していた木谷にとって最適な仕事だった。深夜に行き交うトラックを誘導しながら、ときたま地下にいる作業員たちのことを思った。
「サノ、今どこにいるんだ」という問いは発されることはなかった。それがもし留守番電話でなかったとしても、同じことだった。
 木谷はサノが下水道工事をしている様子を想像した。不慣れで、不機嫌な、耳を赤くしたサノ。休憩中におしるこを何本も買ってしまうサノ。
「君は決して、嫌な予感を口にしちゃだめだ」
 冬眠に入る熊がうなり声をあげ、先に眠ることを仲間に知らせるときも全く同じ音がするだろう。


【初出:2022年4月/ウィッチンケア第12号掲載】


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