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長谷川 裕/アマウネト──Kさんのこと

 今夜から明朝にかけて東京も雪になるらしい。「多摩地域では、この冬はじめての本格的な積雪になるかもしれません」ラジオで気象予報士が注意を呼び掛けている。
 一応、東京都とはいえ、やはり多摩地域は都心とは別のエリアなのだ。雪の日はそのことをいつも以上に意識する。朝にはきっと武蔵小金井にある私の家の周囲は真っ白な雪に埋もれ、駅まで歩く間にくるぶしのあたりまで濡れてしまうだろう。
 都心にむかう中央線の車窓から外を眺めれば、一駅ごとに徐々に積雪が減っていく。勤務先に着くころには、黒く汚れたうすい膜が道路に残るばかりだ。
 残業を終えて、夜遅く武蔵小金井に帰ってくると、まだ白さを保った雪がしっかり残っている。翌朝にはカチカチに凍って歩くのに難儀するのはわかっているのに、なぜか少しほっとする。
 私が子供の頃、東京でも雪が降ることが今よりずっと多かった気がする。そのせいか、雪の日は子供の頃の記憶がふと蘇る。
 とりわけ印象に残っているのは1983年から翌年にかけての冬だ。昭和五十八年から五十九年といった方がしっくりくるかもしれない。全国的に記録的な豪雪の年で、東京でも三十回近く雪が降った。
 当時私は小学3年生だった。数年前から入院していた父方の祖父の容態が悪化し、祖母と私の母、叔母らが毎日交代で病室に通っていた。週末には父や叔父も介護に行ってはいたが、仕事が忙しく、祖父のケアは圧倒的に女たちが担っていた。
 週に何度か私の母の遅番の日があり、官庁務めの父の帰りはいつも遅かった。だから2歳上の姉と2人だけで夕飯を食べることも多かった。ひどく寒く、すこし心細い冬だった。

 1月の後半、東京でも30センチ近い大雪が降った。翌日、吉祥寺のフランス料理店で、祖父の介護の慰労を兼ねた新年会が開かれた。現在は移転しているが、当時その店は東急デパートの脇の道をだいぶ先の方に行ったところにあった。雪の積もった道を歩いていくのは大変だったが、久しぶりに一家全員で外出するのが嬉しかった私は、雪が深い場所をわざと選んで歩き、大きな声を出してはしゃいだ。
 新年会には祖母や叔父、叔母らも来ていたから、その夜、病室で祖父の面倒を一人で見ていたのは、Kさんだったはずだ。親族じゃないからといって新年会に呼ばれていないのは、少し不公平な気がした。

 Kさんは、代議士だった祖父の秘書を長年務めていた女性だった。Kさんの看病ぶりはとても献身的で、家族と同じように週に何度もシフトに入ってくれていた。
 あるとき祖父の見舞いに行くと、その日の当番だったKさんが季節外れのメロンを出してくれた。病室にはいつも見舞いの品のフルーツやゼリーがたくさんあって、食の細った祖父の代わりに食べるのが私の楽しみだった。
 熟れすぎたメロンにかぶりつき、ベタベタになった手を拭こうと部屋に干してあったタオルに手を伸ばした。するとKさんが「それは先生のシモのお世話に使うのだから」と言って、別のタオルを渡してくれた。「シモのお世話」の意味がわからず、後で母に訊いて祖父が排泄にも苦労していることを知った。
 人見知りだった私は、Kさんが病室にいると気づまりでなんとなく苦手だったが、祖父のためにそこまでしてくれているのかと感激した。

 その年の冬は長引き、3月になってもまだ雪が降った。ようやく遅い春が訪れた頃、祖父は都心の大学病院から自宅に近い多摩地域の病院に移った。夏は打って変わって猛暑がつづき、祖父の容体は急速に悪化していった。病室の空気が重くなるにつれて私が見舞いに行く機会も減った。そのせいか、この頃にはKさんと会った記憶がない。

 かすかに秋の気配が漂い始める頃、数年間にわたる祖父の闘病生活が終わった。
 病室に駆けつけたとき、祖父は既に意識がなく人工呼吸器をつけていた。祖母は祖父の痩せ細った腕をさすりながら、「長い間お疲れさまでした。とても疲れたでしょう? ゆっくり休んでくださいね」と言った。
 私は急に悲しくなった。祖父も祖母も私にはいつも優しく、叱られた記憶が一度もない。泣きじゃくる私をみて、母が厳しい表情で「泣くのはまだ早い」と言った。私につられて幼いいとこたちも泣き始めた。
 危篤状態のまま祖父は夜まで持ちこたえ、私と姉、いとこたちはいったん新築の家に戻ることになった。大人たちは皆、夜を徹して祖父に付き添った。
 翌朝、母が帰ってきて、祖父が亡くなったと私たちに告げた。臨終の際、Kさんが病室にいたのかどうかはわからない。
 
 万年野党とはいえ、それなりに当選回数を重ねていた祖父の葬儀には、大勢の弔問客が訪れた。地元の市長や、テレビでよく見かける大物議員も来ていて、私は少し興奮した。
 しかし、なぜかKさんの姿がどこにもない。母に尋ねると、母は「お父さんが呼ばなかったのよ」とだけ言った。
 あんなに献身的に看病してくれていたのに。不思議に思ったが、何となく訊いてはいけない空気を感じてそれ以上の詮索はしなかった。

 それからKさんとは一度も会っていない。
 
 十数年後、大学生になっていた私は祖父の日記を題材に卒業論文を書くことにした。日記は、戦前から晩年まで半世紀近くにわたって断続的に書かれたもので、戦前/戦後で祖父の思想と行動がいかに変遷し、あるいは一貫していたかを示す興味深いものだった。
 そして最晩年の日記まで読み進んだとき、祖父とKさんが親密な関係だったことを知った。入院中の祖父はKさんの当番の日を密かに心待ちにしていて、そのことが祖母に対してとても心苦しい、しかしどうしようもないのだ、と書いていた。
 祖父の闘病生活は数年間にわたり、看病する家族も疲弊していた。Kさんの献身的なサポートはとても有難かったはずだ。
 祖母は還暦をとうに過ぎ、私の両親と叔父夫婦には小学生の子供がいた。Kさんがいなければもっと大変だっただろう。
 長男である父もKさんを頼り、感謝していたはずだ。しかし同時に、祖母の気持ちを考えると許せない思いもあったのだろう。

 昨年、祖父の三十七回忌と祖母の三十三回忌の法要があり、久しぶりに親族が集まった。弱者に寄り添い、平和のために活動した祖父、いつも穏やかで皆に優しかった祖母。思い出話に花が咲いた。特に男たちは大きな声でたくさん喋った。私も卒論に書いた祖父の功績を披露し、大叔父を喜ばせた。
 ただ母は、同居していた晩年の義母に優しくできなかったことを悔いている、と小さな声で話した。私の妻は馴染みのない夫の親族に囲まれて、黙って座っていた。

 そしてKさんの話は一度も出なかった。あの雪の日の新年会と同じように。


【初出:2021年4月/ウィッチンケア第11号掲載】


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