見出し画像

蜂本みさ/イネ科の地上絵

 くじびきで田んぼ委員になった。
 正式な名前は田んぼアート委員だが誰もそうは呼ばない。つっちーで定着しかけていたおれのあだ名も田んぼ委員に上書きされた。新学期から最悪だ。せめてアート委員ならよかったのに、先生も容赦なく「田んぼ委員は放課後に集合」などと言う。配慮が足りないと思う。 
 田んぼアートはうちの恒例行事だ。校舎から運動場を挟んだ西側の田んぼを農家さんに貸してもらい、緑や黒や白などいろんな色の稲を植えて巨大な一枚絵を作る。田植えの日は生徒はもちろん、保護者や卒業生や地元の人たちで大賑わいになる。田園地帯の真ん中にある私立の中高一貫校なので、野外教育だとか地域学校協働だとか、お題目があるらしい。
 四月最初の委員会でそんな説明を聞いたあと、高二で帰宅部だからという理由で委員長に選任された。おれは中等部入学だから田んぼアートも五回目で、はっきり言ってもう飽きている。これまでは田植えさえやり過ごせばよかったが、今年は田んぼ委員長だ。最悪の二乗だ。
 会のあと顧問の染岡が「土田、鴨居、大変だけどがんばってな」と声をかけてきた。染岡はがっしりしているが妙に青白く、左目の下に泣きぼくろがあるので女子からはナッキーと呼ばれている。おれは「っす」とお辞儀しながら副委員長になった鴨居の横顔を盗み見た。中一の時同じクラスになって以来で、たしか強豪の女子バドミントン部に入るために入学したと言っていたはずだ。鴨居はうつむいている。「絶対いい作品にしよう。な?」染岡が言うと、鴨居は勢いよく顔を上げ「はい!」と歯を見せて笑った。その笑顔が獣の威嚇じみていてぞっとした。
 田んぼ委員長になったことを夕食の時間にこぼしたが、両親は存外嬉しそうだった。母は「いいじゃない、割り切ってがんばんなさい」と言った。父は「毎年すごいよなあ。実はけっこう好きなんだ」と言った。たしかにうちの田んぼアートはレベルが高い。町おこしでやっているところには敵わないが、年々色数が増え絵も複雑になっている。中一の時は学校のゆるキャラが山登りをしている絵だったが、昨年は真珠の耳飾りの少女だった。地元新聞にも毎年大きく載る。悪くないかもしれない、と思い直してその日は寝た。
 田んぼ委員は意外に忙しかった。五月末の田植えまでにやることがたくさんあるのだ。まずはデザインを決める。一応募集するが、時間がないので実際は委員が各自アイディアを持ち寄る。今年は大黒天になった。目を細めて笑う大黒さまが袋からおにぎりをぶちまけているという正気を疑う絵柄だが、五穀豊穣がどうの、という説明が先生にウケた。
 絵が決まったら美術の日下先生に渡す。田んぼアートは校舎の高い位置から観賞するので、絵をそのまま田んぼに写すと歪んでしまうのだ。だから斜め上から見下ろしたときにきれいに見えるよう、絵の方を歪めておく。その逆算をするのが日下先生だった。先生は絵を見て「けったいやな。若人なんやからかまさんかい」とつぶやいた。おれが何も言えずにニヤニヤしていると、先生も「任せとき」とニヤッと笑った。
 図面が上がれば田植えの準備だが、染岡の話を聞いて全員が「えーっ」と声を上げた。当日は大勢がいっせいに田植えをするので、どこに何色の苗を植えるのか目印が要る。その作業を田んぼ委員にやれというのだ。しかも田植え前日の土曜日に。染岡は教卓を叩いた。「えーじゃない! 途中までは農家さんとボランティアさんがやってくださる。地域との協働なんだから丸投げってわけにいかないだろ!」思わぬ剣幕に全員が黙った。
 土曜日、しかし染岡は来なかった。女子バドミントン部の顧問もやっていて、今日は試合だという。クソか、と思った。十七人で田んぼへ向かった。慣れない土と草の匂いで、息をすると肺の中がへんに明るい。鴨居が「あれっ」と声をあげた。
「紐、あるね?」
 そうだった。農家さんたちが絵の輪郭線をなぞるように立てたカヤの茎を、色のついたビニール紐で囲んでいくのが今日の仕事だ。だが田んぼにはすでに赤や白や黒の紐が張り巡らされている。風が吹くと紐がビビビビ、とセミの翅音に似た音を立てた。みんながおれの顔をじっと見た。田んぼ委員長の判断を待っているのだ。染岡に電話をしたが出なかった。田んぼの隅に人がいるので近づくと、「こんにちは」と向こうから声をかけてきた。四十歳くらいの女の人だ。「こんにちは、堀さんでしょうか? 田んぼアート委員長の土田です」「紐張りお疲れさま。早くてびっくりしちゃった」「でも、おれたち今来たんです」「そうなの? じゃあボランティアさんかな……?」堀さんは首をかしげた。「ナッキークソ無能かよ」と誰かが小声で言った。「あれ、鴨居ちゃん!」堀さんの目が大きくなった。「あ、はい、どうも」「いつも紗英がありがとね。鴨居ちゃんが練習見てくれるからレギュラーになれたっていつも言ってる」鴨居はあいまいにうなずいた。
 紐が張ってある以上やることはない。みんなバスの時間だからとあわてて帰っていったが、おれと鴨居は明日の準備で居残った。久しぶりに話した。鴨居はやっぱりバド部だった。田んぼ委員になったのは染岡の指示だという。そういえば委員の女子にはバド部が妙に多かった。「部のお荷物は田んぼ委員でもしてろってことだよ。わたし万年補欠だから」「万年って」とおれは笑った。鴨居は笑わなかった。「五年補欠だよ。五年も万年も一緒だよ。染岡はさ」しばらく待ったが続きはなかった。鴨居はナッキーって呼ばないんだな、と思った。
「二千年の昔、ペルーではナスカの地上絵が作られました。古代の人々もひとつの絵を胸に団結し、偉大な芸術を生み出したに違いありません。今日はぼくたちの手で、イネ科の地上絵を作り上げましょう!」
 渾身のスピーチだったが大人からまばらな拍手が上がっただけだった。生徒は田植えなんかやりたくないのだ。田んぼのそばにはブルーシートが広げられ、苗の束が大量に並んでいた。シートは色ごとに分かれている。苗の取り違えは田んぼアートにとって致命的だ。葉の色が違う黒や白はいいが、黄や橙は見分けにくいし、赤などは穂が出るまで緑の稲と変わらない。と、今朝染岡が言っていた。
 苗を植えていると、田んぼ委員長、と声をかけられる。意外と腹は立たなかった。思い出の中の五月みたいによく晴れていたからかもしれない。背中に陽の光が暖かかった。風が腕やすねの毛を撫で、肌についた泥を白く浮かせた。「田んぼ委員長、ここって大黒天の何?」尋ねられたが答えられなかった。上空から見ればわかるのだろうが、田んぼの中では大きすぎて何がなんだかわからない。図案が歪んでいるから余計だった。目印によるとここは赤の苗。それだけだ。田植えが終わり、帰り際に教室から田んぼを眺めた。苗はほとんど見えない。夕焼けに沈んだ鏡みたいだった。

 田植えが失敗したのではないか、と言われだしたのは二週間後のことだった。苗が伸びて色が出てきたが、おにぎりのあたりがどうも白くない。反対に白くないはずの場所が白い。おれたちは青ざめた。染岡は激しく苛立ち、おれたちをなじった。大勢が作業する以上間違いは必ずある。だがこれは一定の確率で起きるエラーとはわけが違っていた。今浮かびつつあるのは、大黒天とはまったく別の絵だった。二体の幽霊が向かいあっている。そんな風に見えた。
 学校全体が戸惑う間にも苗は成長した。六月の終わり、久々に雨が上がると、水を含んだ稲の描き出す輪郭がふいにはっきりとした。体格のいい男が固く握った拳を振り上げ、ジャージ姿の女子を今にも殴りつけようとしている。女子は尻もちをつき、華奢なラケットを手から投げ出している。人間に目鼻はなかった。が、誰かが男の顔を指さし、あれ、ほくろじゃないか、と言った。黄色い稲の中に、黒い稲がぽつんと一本立っているのだった。ナッキーだ、と誰もが確信した。
 染岡は学校へ来なくなった。女子バドミントン部の部員たちが徐々に語り始めた。染岡はわたしたちを日常的に殴ってた。他の先生に相談したけど、染岡は部を全国レベルに押し上げた功労者だから、行き過ぎた熱意で片付けられた。逆にきつく口止めされた。あの絵は本当のことだよ。でも一体誰が?
 田んぼアートが体罰を告発したというニュースは新聞からネットに飛び火し、学校の対応が炎上していたが、なんだか全部が遠かった。田んぼの横を歩くと風がつくる稲の波がおれを追い越していった。あの中の幾本かはおれが植えたのだ。近くで見ると色の違う稲がまばらに生えているだけで、ただの模様みたいだった。ナスカの地上絵も案外こんなものかもしれない。絵を描いた人たちだって、自分が何を描いているのか知らなかったんじゃないか。そんな風に思った。
 ひと通り話を聴かれて田んぼアート委員会は解散した。鴨居と話す機会もなくなったが、先日校長室の前を通ったらバド部の女子たちが保護者と一緒に並んでいて、その中に鴨居がいた。たぶん体罰の件だろう。鴨居はおれに気づくと無表情のまま肩のあたりでピースサインを作った。女子をかっこいいと思ったのは初めてだった。
 学校は稲の除去を懇願したが、堀さんは断ったらしい。当然だと思う。稲穂が実ると絵は次第にぼやけていき、十月のある日いっせいに刈り取られた。いつ誰が図面を替えたのかは結局わからない。カヤの茎を立てた時はたしかに大黒天だったそうだ。となると怪しいのはあの土曜日のビニール紐だが、動機があるバド部は試合だったし、数人でできるような作業でもない。数十人の手がかかっているはずだった。
 十一月の半ばを過ぎた頃、家に帰ると玄関先に茶色の紙でできた大きな袋が置いてあった。結んである紙紐をほどいて中を覗くと、真っ白な米が口のところまでぎっしり詰まっていた。おれは右手を手首まで米の中に埋めてみた。重くて冷たくていい気持ちだった。

【初出:2022年4月/ウィッチンケア第12号掲載】



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?