見出し画像

病気とカルマのレッスン~人は何故、病気に罹るのか~テキストよりの抜粋

先日、スタエフでのライブ配信で話した内容の一部(読み上げたところ)をこちらに文章にしてUPしておきますね。

以前、スクール(講座)で話していた内容(テキスト)よりの抜粋で一部引用です。全体(全容)ではないので解りにくくてすみません。

「健康な身体は、たくましくしっかりと安定しており、自分で自分を管理している。それは抜きん出た存在である。健康な状態はなにかを越えたものがある。
思いやりを示すエネルギーが十分にあり、落ち着いた気質があり、事故や不運はなく、物事をやりとげる能力があり、強い欲望や不自然な刺激にとらわれることがない。

つまり、健康な人は支えを必要としないのである。

万物と霊的に完全に調和した完全な健康というものは、死ぬべき運命をもった普通の人間のうちの、当たりくじを引いた人というわけではなくて、たいていの人が望みさえすれば、上に述べたようなバランスのとれた状態を勝ち取ることができるのである」
 
私たちは、ある病気の原因をいつも外的な因子に捜し求めているが、それよりもむしろ、身体そのものに求めるべきではないだろうか?
 
「どうして、身体はみずからをこんな状態に追い込んでしまったのだろうか?」と…「どのように身体はミスをしたのだろうか? また同じことができるのだろうか?」「この困った事態から、身体を救出するために何かできることはあるのだろうか?」

身体は、先にも述べたように、本来自己修正の力を持っており、病気とはその身体の平衡が崩れたというサインである。その平衡を回復させるために、出来る限りの努力をするようにするなら、その努力には意味があるし、身体のバランスの本質を理解することにもなる
 
自然治癒力 
人間という有機体は、生まれつき自分自身を保護し、統御し、適応し、治癒させる強い衝動のようなものを持っている。さて、多くの見識者たちが、有機体全体に充満する生命力について、数々の理論を提起してきた。

この生命力について、 
クロード・ベルナールは「ライフ・フォース(生命の力)」
サムエル・ハーネマンは「ダイナミクス(活力)」
アンリ・ベルグゾンは「エラン・ヴィタール(生命の飛躍)」
と名づけている。
 
しかし、現代科学はそうした生命力の存在を無視する傾向があり、理由としては、その力には実体がなく、測ることが出来ず、科学的研究によってはあまりに捉えにくいからということである。

が、新しい測定方法や新しい研究が開発されるようになり、かつては知られていなかった多くの現象がたやすく理解されるようになってからは、この「生命力」という理論は、「自然療法」の大黒柱になってしまっている。

つまりは、身体を保護したり、統制したり、自己治療したりする体の力を、生命力の本質、あるいは生きている総てのものに備わっている、「生命」自体の作用とみなすようにすればいいのである。
 
ここでいうところの「生命力」とは、まさにグノーシスの教えにあるマインド(エーテル・バイタリティー)そのモノのことである。

ホメオスタシスとは、内部環境の維持のことである。文字通りに言えば、定常な状態ということ。一般的に、この言葉は「完全なる平衡を保たれた」健康状態の意味として使われている。

ホメオスタシスは身体のあらゆる機能を調節している。身体のあちこちにコントロール・メカニズムが存在しており、体温を調節し、血液供給を調節し、代謝率を調節し、汗腺を調整し、筋肉に衝動を与えたりしている。私たちが起きているときも、寝ているときも、いついかなる時も維持されているのである。平衡維持機能は、たくましくて融通が利き、順応性がある。これが恒常性のメカニズムである。

ホメオスタシスは、身体の自己制御機能と見なすことが出来る。それは身体の機能を維持し調整しながら、全身の健康を維持している、身体の主要な活動といえるだろう。
 
グノーシス(霊的真理)の考え方では、エーテルバイタリティの無駄がなく、十分に蓄えられており、かつまた肉体およびエーテルダブルを創造し、修復・維持する大天使たちの活動が上手くいっている完璧な状態といったところであろうか。つまりは、霊的健康の定義を十分に満たしている状態のことと言っていい。
 
※身体の健康というものは、身体の状態と同じく「身体が何かをするか」ということに関わっている。身体内の流れ作業という工程にとって、生命維持のための素材が十分に必要なことは明らかである。

※ホメオスタシスというのは、固定した状態ではない。人は、一歩足を踏み出すごとに新しい姿勢のバランスを作り出さなければならないので、そのようなときにホメオスタシスのメカニズムは中断されることになる。

何処かへ到着するためには…何かをするためには、人は一時的に安定を崩さなければならないのである。

つまり、ストレスがそのシステムに掛かる事になるということ。ストレスは生存にとって必須なもので、それが過度に偏ったときたけ問題になる。
 
健康と病気 
健康とは「完全なるもの」を意味するHealthという古い英語に由来する。

健康という言葉を辞書で引くと「身体の正常状態」「病気でないこと」と定義されている。
 
不健康は、有機体の異常な状態で、それは複雑な身体と健康の機能が失調したり、調和が乱れた場合に現れる。不健康のこのような状態は、遅かれ早かれ急性あるいは慢性の疾患となって現れることになる。

しかし、病気というのは一つの存在ではなく、個体の状態とか状況といったものなのである。何百人という色々な人間がいるのと同じように、それぞれに独特の病気が存在するということだ。ようするに、それぞれを独特の病気としてみることが大切で、病気よりもむしろ、それぞれの患者として扱う必要があることを忘れてはならない。

カルマには、今生の転生してきた目的でありテーマともいえる大きなものもあるが、毎日の日常生活において創りだしている、小さなカルマをこそ見落としてはならない。

なぜなら、小さな要素としての問題こそが大きな問題を創りだしている構成要素のパーツだからである。
 
いま自分が置かれている環境こそが、自らを成長させ、カルマを刈り取るための「すべて」が用意されている貴重なレッスン場であることを理解すること。

あなたが精神的平和を乱されてしまう物事、壁や障害として横たわっている出来事、問題と思ってしまう出来事、繰り返し出会ってしまうパターン、執着してしまいなかなか手放せないこと、自分の感情的傾向や考え方の癖、自分が周囲や他人に与えてしまっている苦痛…これについて、自らの内側をよく見つめて考えてみることだ。批判をするのではなく、ただ観察してみること。

さすれば、「学ぶべき課題」自分のカルマがおのずと見えてくるはず。

病気は、その人が「自分の声」をきちんと聞けていないこと、魂に従って生きていないことの現れである。

物事が上手く行かないということ…そこにある障害にしても、病気にしても、その人に対して、「違うよ」というサイン、シグナルを送っているのである。 
それは警告であり、道を間違えているという…その人にとって正しい考え、生き方が出来ていないということを知らせる、身体(魂)のクーデターなのである。
 
まさに病気は、持ち主に対する革命そのものである。
 
病気や身体の不具合は、その人に「何か」を知らせている。病気が意味しているもの…体の声を無視してはならない。

身体の声に耳を傾けることを忘れてはならない。それは魂の声でもあるからである。カルマとしての病気が意味するものに、私たちは学びの機会を得ることができる。それは身内の病気にしても、身近な人のものであっても同じである。

身体のゆがみは心のゆがみ
身体も精神(こころ)の問題も、魂との不調和によって起きている現象であることを理解すること。

カルマとして起きていることは総て、この不調和を指摘しているのであり、それを正すことが目的である。従って、その不調和を正すことをしなければ、カルマとしての病(問題も含めて)が治ることはない。

「病気」という結果からは、その人が自分自身に不正直で、魂の声に逆らっているという事実、その原因を遡って考えてみることが肝心である。

「すべて治す力は、内部の生命エネルギーの働きからくる。
私たちが心や身体の不調を治したければ、自分の態度を変えて、生命力を破壊的にではなく、建設的に働かせなさい。
憎しみ、悪意、妬みは、人々の心や魂や身体に毒素を作り出すだけである。」
 
「すべて治ると言うこと、すべての助けは、建設的な考え、建設的な行動、そして何よりも第一に建設的な生命エネルギーよりのインスピレーションからやってくることを知って、忍耐強く働くことである。身体の不調は、よりよい偉大な自覚へと押し上げる踏み石とするようにしなさい」
 
「悪を思わず、悪を言わず、悪を耳にしない。そのとき、真理が生命エネルギーの流れとなって心の隅々を浸し、やがて肉体を浄らかにして活力を与え、失われた生気をとりもどしてくれる。」
 
「親切を語り、優しさを語れ、忍耐強くあれ、人のあら捜しをするな、他人を非難するな。あなた方がこれから歩む道筋に、あとで困るようなものは置かないことだ。他人の避難を浴びるような無駄口を叩くな。このことが身体の状態の前途を変えるかもしれないのだ」
 
「恐怖は、それが自分の自信の無さから来ようと、自分が他人にどう思われているか、どう見られているかという不安から来ようと、人間の大多数の病気の根元である。」

by エドガー・ケイシー

「病気とは、ある日突然にやってくる侵略者でも悪魔でもない。身体や自然の法則に反した行いから起きる。例えて言えば、熱いものに触ったら火傷をしたというほどの因果関係にある。同様に、心の法則に反した思いによって心は大火傷を負い、それが肉体にも現れてくる。
 
法則に反した行いや心の結果は、時には無意識の中に生きているが、活動はしていない種となって仕舞い込まれ、忘れ去られてしまう。私たちの無意識の土の中には良い種ばかりではなく、今日あるいは、遥か昔に取り入れた恐ろしい種も宿っていて、狂気の爪を出す時期を待っている。その時は今日かも知れない。

忙しさ、運動不足、睡眠不足、栄養のかたより、不注意、飲食過剰、短気、怒り、あざけり、自分勝手、恐怖心、恨み、憎しみ、他人を見下すこと、怠慢、悪意…これらは私たちの創り主であり、健康をもたらす力である生命エネルギーの働きを弱めてしまう、破壊的な力である。私たちの心が破壊的な力に左右されていて、支配下の神経系がこの影響を受けているとするならば、どうして健康が保てようか。
 
これらのうちでも、病気の種として無意識の中に潜んでいる、私たちにとっての最大の敵は恐怖心である。
そして、先に述べた破壊的な力の一つひとつを振り返ってみれば、それぞれの底辺に恐怖が横たわっていることが解る。

忙しさに駆り立てられているのは何であろう? 将来への不安か? 睡眠不足の原因は? 運動不足はエネルギーの出し惜しみか? それとも時間が無いというのだろうか? 栄養の偏りは嫌いなものを食べられないからか、不注意は考えすぎか、考えが到らないのか、自意識の過剰ではなかろうか?不注意なことをしたことにより、他人や自分に対する恐れが発生していないだろうか? 短気は自分や他人を信頼できないからか…と言う具合に問いかけてみれば、その影に恐怖が隠されていることが解る。
 
そして、そのどれにも言えることは、病気の時には身体の組織や器官の中で起きている不調和やリラックスの無さが、そのまま私たちの心の中にも起きているということである。

私たちの多くは気づいていないが、私たちが他人を嘲ったり、恨んだり、見下したり、憎んだり、悪意を持った時、実は自分の生命に対してそのようにしたのである。
それらは調和と協力に反することであり、間違いなく私たちの無意識という土の中に、恐怖という種を蒔いたのである。同様に利己主義や自意識の過剰は、生命エネルギーや他の人との協力、調和が無いことから恐怖の手が握っていることになる。
 
私たちに恐怖がある時には緊張がおこる。その緊張は交感神経系、脳脊髄神経系の神経節に不調和をもたらし、その支配下の器官にも不調和、不協力、緊張を強いているのである。

このように心身にとって最大の敵である恐怖は、私たちの上に大きく覆いかぶさって、実際に髪を白くしたり、心臓を止めたり、膝を曲がらなくしたり、食事も出来なくしてしまう力である。

けれども、恐怖の闇を払うのには、いま私たちの内で活動している、唯一の無限の生命エネルギーを認める光があれば十分である。恐怖はこの世界には存在せず、明らかに私たちの心が作り出した、実質のない幻影に過ぎないものだからである。」

by エドガー・ケイシー

「意志はハンドルまたは舵であり、心は動力であると簡単に考えてもよい。動力が働かなければいくら舵を切っても方向は変わらないし、いくら動力が働いても舵がしっかりしていなければ暴走してしまう」
 
「意志でもって、私たちがどのように真実との関係を生きるかという地上での経験の中では、その意志の在り方が人間の運命となってくる」
 
「心は仕事師である。建設者である。考えることは行うことである。思考はしっかりとした物である。考えることは良くも悪くも具体化される」
 
「心や想像がそれについて考えているもの、また 肉体の感覚に絶えず結び付けられているもの。それが個人の成長の方向を決定する」
 
「法則の意味は行動して始めて理解される。知って何もしないのは、生命の法則に反することである。まず知ること、次に知ったことを行動に移すことが理解することとなる」
 
「正しい行為とは何であろうか、これはまさに親切であること。高い理想をもつこと、自己を捧げること。まさに喜んで盲人に手を貸すこと。足の悪い人のためには、その足となることである」

by エドガー・ケイシー

もし、こちらの記事を読んで頂いて、面白かった、参考になった…とそう思って下さったり、サポート下さいましたならば、心から嬉しく思います💛