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つい忘れがちな「『真を写す』と書いて写真」のことについて。

 その日は『春の暖かさ』を通り越して『夏の暑さ』がじわじわやってきているような体感気温だった。天気も良いし、お昼ご飯を食べ過ぎたから、少し運動しようと軽い気持ちで、とある珈琲屋さんへ向かった。

 松山JR駅付近にあるそのお店まで、フィルムカメラを携えてフラフラと寄り道していたら、着くまで片道1時間程度かかった。

 流石にそれだけ歩けば、喉もカラカラになる。目的のお店に着くと涼しげに読書をしている店長さんと目が合い、悩む間も無く「アイスコーヒーをお願いします。」と頼んでいた。

 ダルマのように丸い硝子のコップに淹れてくれたアイスコーヒーをグッといきたいのを我慢しながら、少しずつ飲んだ。市販の安いコーヒーとは違うのだから、水のように飲むのは勿体ない気がしたから。

 フィルムカメラを持って歩いてきたものだから、必然的に店長さんが「写真撮るの好きなの?」と聞いてくれる。

 そこから自然と写真の話題になっていき、どういう写真が好きだとか、逆にこういうのは苦手だ、など会話していく。
 
 その中でも印象的だったのは「僕が素敵だなと思う写真を撮る人は、どんな媒体で撮ってもその場の空気感がきちんと切り取れるんだ。」という店長さんの言葉だった。
 要は、スマホのカメラでも、デジタルカメラでもフィルムカメラでも、その人が撮るとその時の空気感が出るらしい。

「まあ、良いものは良く、悪いものは悪くしか撮れないんだけどね。」

 空気感がそのままというのは面白いなと思い、さらにそこから話を突き詰める。そして、憶測ではあるが、「きっとその人は『そこにあるものしか撮れない』のだろう」という終着点へと辿り着いた。

 今のデジタル写真は、自分の好きなように色合いや光の具合を変えることが出来る。私もInstagramやTwitter、noteにあげるデジタル写真は息をするように平気で変える。
 それは私が、見返してその時を思い出したい時、出来ることなら綺麗な方が良いと思っているから。(振り返る必要が無かったらきっと私は写真を撮らない)悪いことではないけど、偽っていることに変わりはないし、それが当たり前にもなっている。

 だけど、店長さんが好きな写真家は、そういった偽ることをしない、というより、偽る必要がないほど、何か自分の中で強い芯があるのかもしれない。

そしてそういう人は、ただただ「目の前にある真実を写すことが出来る」のかもしれない。
 
 

「いつかそんな人になりたいなあ。」と私が言ったら「きっとなれますよ。」と店長さんが言ってくれた。ありがとう、きっとまたお邪魔します。

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