今日は休む

末っ子長女4歳。
園外保育(ちょっとした遠足等)の翌日は必ずと言って良いほど休みます。

すると、おばあちゃん(実母)が困った顔をして
「えぇ、お友達待っているのに〜」と、行かせようと働きかけてくれます。
きっと、娘である私のことを思ってくれているんだと思います。
その言動に、上2人の様に不登校になって欲しくないと言う願いが滲み出ているなぁと感じます。

が、そんな有り難いお気持ちを他所に、私は休ませます。
本人が休みたいなら、休めば良い。

私は、長男に我慢をさせ過ぎました。
長男を育てていて、どんなに幼い子でも、我慢できる子は自分の気持ちを押し殺す事が出来る事を知りました。
私と夫は、長男にそれができると見ると、「躾」と称して、どんどん我慢させてしまいました。
一緒に買い物に行っても、興味を持ったお菓子すら我慢させました。なるべく甘いものを覚えて欲しくないと言う私の心情を優先して。
振り返ってみると、「何かしたい!」と長男が言って来ても、親の疲労度・下の子の機嫌、、、理由をつけて諦めさせてしまう事が多かったと思います。
そして今、長男は、なかなか本音が言えず苦しんでいます。

今の彼をみていると、幼い時に「受け止めて欲しい」と言う思いを抑えつけてしまう機会が多いと、次第に「条件付けでないと受け止めてもらえない」と学習してしまうように感じています。

親であるが故に
「子を真っ当に育てたい」
「ちゃんと育てていると思われたい」
「近所の人に後ろ指刺されないように」
そんな思いで固められてしまった私達の心に吹き荒ぶ北風に、幼い彼の淡い願いは何度となく吹き消されていたように思います。

わかっていても
興味があるとどうしてもそれが気になってしまう。
伝えたい気持ちは溢れているのに、言葉では気持ちをうまく言い表せない。
そんなもどかしさを抱えて苦しんでいた彼に、私はただ優しく微笑んでさえあげれば良かったのに。「頑張っているね」ってギュッとすればよかったのに。

思い返せば、私は幼い頃
打てば響くと思われ
親や先生から
求められ続けました。
気がつけば、自分の気持ちに蓋をする事が当たり前になりました。

社会に出たら
上司や先輩の期待に
応えようと頑張る様になりました。
結果、仕事に行けなくなりました。

人を好きになったら
相手の気持ちを優先するあまり、自分の気持ちを置いてきぼりにしていました。
結婚して10年を過ぎて、やっとモラハラ気味な夫と有意義な「小競り合い」が出来るようになりました。

なぜ、私が不惑の年を過ぎても幼馴染から心配されているのか、今頃になってやっと理解できつつあります。きっと私は、「過剰適応」の塊なのかも知れません。

親・先生・上司・恋人・世間体…
何かのきっかけで「過剰適応」の深みに陥ると
知らず知らずのうちに、その深みから抜け出せなくなってしまうと実感しています。


なので、大人は嫌がるこどもを引きずってまで幼稚園や学校に連れて行く必要はないと思うのです。
世間の目や先生方の気持ちに応えるよりも
命懸けで何かを訴えている目の前の我が子の気持ちに応えて欲しい。
「あなたになら
この気持ちをぶつけても大丈夫。」
「あなたなら
この気持ちをわかってくれる。」
そう信じているからこそ
「行きたくない」
と言えたのだから。


大人もこどもも
「休みたい」って言っても大丈夫。
だから「休もう。」
疲れた心と身体を「休ませよう。」

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