私は子供の頃運命って言葉があまりすきになれなかった。

she isの公募に送って落ちた文章です。

言いたいことの表を撫でたみたいな文章だけど、深掘りする気力がないのでこのままこっちにあげます



私は子供の頃運命って言葉があまりすきになれなかった。

テレビから流れてくる保健所の犬たちの最後、自分と同じくらいの子供が亡くなったというニュース、たくさん働いて懸命に生きてきた祖父の姉の身体が不自由になったとき。そういうものにぶつかるたびに「神様ってひどい人なんだ」と思った。
何故か無条件に神様の存在は信じていて、そのくせに人に降りかかる理不尽を払わずにいる姿も見えない「神様」に虚しさを感じていて、だからこそ「運命」という最初から決まっているような感じがする言葉が嫌いだった。
両親は「神様は乗り越えられる人に試練を与えるんだ」と言ったけど、じゃあ小さな子供の死や身近な誰かの死は私たちへの試練のため?と思ったら、ひどく腹が立った。そんな理不尽が許されるか、と憤った。神様なんて、運命なんてくそくらえだ。

そんな風に思っていたからか、私はずっと「運命」を無視して生きてきた気がする。
私の心と身体に与えられる運命をずっと感じずに生きてきた。
自分が「こうしなければ!」と一度思ったら、それを手に入れられない自分は受けいれられない。死んだほうがましだ、とまで考える。目の前にあることを、目の前にある自分にとって苦しい現実を、運命だと受け入れることができなかった。

たとえばわたしはおみくじを引いて、好ましくない結果が出たら、また次の日にこっそり二回目を引くような人間だった。そしてたいてい前回と変わらないか、前回より悪い結果が出る。
そうなると私はどうするか?
私は結果から逃げる。目を背ける。目の前にある、目の前に降ってくる、あまりよろしくない運命から。
これはおみくじの話だけれど、人生全般に渡ってそうだった。
ずっと怯えていたのだ。なににもなれない自分を、自分の運命を受け入れることを。

変わったのはここ数か月だ。she isの記事で「私の生活証明」という記事を読んだ。
分厚い手帳。記された日々、感情。はっとした。これだ、と思った。
次の日には100均で小さな手帳を買ってきて、毎日なんでも書きこみ始めた。頭のなかにある思考も、思ったことも、現実への苛立ちも、過去への後悔も、乱れに乱れる感情を全部、全部書きこんだ。
そのうちに自分が感情も思考も多くのものを無視して生きてきたことに気づいた。
自分の心を無視し続けて、ただ感情を溜め込み、洪水のような感情にかきみだされて生きてきた。
運命よりずいぶん性質が悪い、自分のなかの見ないふりしていためちゃくちゃな感情に行動を振り回されていたのだ。

運命は淡々とわたしの目の前に多くを落としてくるが、その運命を受け入れず、逃げて、見ないようにして、さらに状況を悪化させたり、せっかく訪れた幸運をつかみ損ねていたのは、わたしがわたしの感情に気付かずに流されるまま生きてきたからだ。

運命はそこにあるだけだ。

感情もそこにあるだけだ。

無視してめちゃくちゃにしていたのは私だった。

今年は友達と初詣に行った。結果は中吉。
内容は、苦しい日々が続くけど神様を信じて頑張りなさい、っていうよくあるものだ。
信神深いわけではないが、今年はなにが起こっても、一度しっかり見つめてみようと思う。
だからおみくじの結果も一度受け止めて、少しだけとどめておく。

自分を知って、自分を感じてみたら、運命も近いものに感じてきたから。
ただ起こることを起こることとして受け入れてみる。
嫌なら逃げてもいい。
たぶん一度でもしっかり見つめて受け入れてみれば、逃げたって、それは自分の選択になる。
ハロー、運命。今まで見ないふりしててごめんね。


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