蛍の光、あるいはこれからの話

「蛍雪の功という言葉がある」

 そう普段から諭していた父親は、ギャンブルで破産した。

 母親は俺と弟の二人を連れて父親から逃げ、後日弁護士を通して正式に離婚をしたと言っていた。その後、彼がどうなったのかは、母親も弟も知らない。ただ、借金のカタに肝臓を売られたとか、北海道の漁船に乗せられたとか、中国で検体になったとか、いくつかう女うわさは聞いた。

 とはいえ、蛍雪の功という言葉を知ることができたのは父のおかげだったし、さらに、悪銭身につかず、であるだとか、因果応報であるとか、そう言った類の言葉も身を以て知ることができたという意味で、父の教えは確かに俺の中に息づいているといえる。

 そんな俺が、結局中学を卒業した後何をするでもなくぷらぷらし、怪しげな老爺に拾われ、殺し屋になってしまったのだから、血は争えない。少なくとも、苦労して勉学に励むことで大きな功績を得られるという言葉から連想される大きな功績と、殺し屋というやくざな仕事は全く正反対にあるだろうし、とはいえ、実際そもそも苦労して勉学に励んでいないのだから、諺は案外正しいと言えばそうなのだ。

 俺に殺しの依頼が舞い込んできたのは、晩秋のある日のことだった。

「こいつを見つけてくれ。殺しても構わない」

 そうなじみの金貸しに頼まれたのだが、名前もわからない相手を探せ、という依頼は殺し屋ではなく探偵にするべきなのではないだろうか、と言いたくなる。もっとも、普段から色々と仕事を回してくれる相手のことだから、多少はサービスといった気持ちで相手してやろうなどと考える。それにしても、写真に写った男は人相も悪く、不健康そうななりで、その割には体つきがよく、得体のしれない風貌だった。

 相手の強さを推し量れるということは、殺し屋にとって最も必要な技能と言っても差し支えない。弱い相手はさっさと殺してしまえばよいのだが、それなりに強い相手を殺すというのは骨が折れる作業だし、逃げられたらたまったものではない。現代の日本において銃器はそうそうつかえたものでないので、必然的にナイフを使うことが多くなるのだが、格闘技を経験している相手などはいつも大変だ。

 とにかく、この町に潜伏しているらしいターゲットを探さなくてはならない。期限はそんなに厳しくないらしいが、冬になる前までには、と金貸しには頼まれた。

 しばらく調べて回ったが、写真一枚ではやはりどうにも見つけ辛い。名前ぐらい教えてくれてもいいのに、と思ったが、金貸しも知らないのだから仕方ない。というより、一応名前は知っているのだが、間違いなく偽名なのだから、聞いたところでどうしようもない。

 町の浮浪者たちにカネをばらまいて張り込みをさせたが、一週間以上たっても何の音沙汰もなかった。本当にこの町にいるのだろうか、と訝しむ気持ちも生まれてくる。やれやれ、一杯喰わされたんじゃねえだろうな。

 ところが、意外な形で俺はターゲットと出会うことに成功した。というより、出会った。

 いつものように街角の喫茶店で、コーヒーを飲んでいた。その時に、そいつは現れた。というより、ただただ、道を歩いていた。そして、今まで見つからなかった理由がわかった。その男は、写真とは全く違う髭面だったからだ。

 職業柄、髭や髪、衣装が変わったとしても同一人物を特定する訓練を日々していたからわかったのだが、町の浮浪者程度では、何人雇ったところで見つからないままだっただろう。それぐらいにこの付け髭はよくできたものだった。しかし、驚くべきことは、はたしてそこではなかった。

 まずはいったん接触しよう、と俺は考える。探して来い、殺しても構わない、というのは、どちらでも大差ないのだろうが、殺さずに探して捕まえることがベターだというクライアントの判断だろう、と推理する。そして、そうだとして、どうして殺し屋に生死を問わない形で探されているのか、この男は一体何をしたのかというちょっとした興味がわいてきたのだった。

 この業界に入る時に、技能は出来るだけ持っていた方がいい、と教わった一つの技能がすりだった。これができるだけで、相手の本性を探ることもできるし、情報を収集するのにも役立つ。そして、何より役に立つのは、相手と自然に接触することにだった。

 俺は喫茶店を出て、その男とすれ違う。そして、すれ違いざまにポケットから財布をすり、そのまま地面に落とす。

「あの」

 俺はそう言って男に声をかける。ここで逃げられたなら、殺してしまっても構わないな、と思う。

「落としましたよ」

 そう言って俺は財布を指さす。男は振り返り、こちらを見てしばらくじっとする。そして口を開いた。

「健二か」

 俺は驚きのあまり、え、という間抜けな声を出して、そのまましばし制止した。

「やっぱり、健二か。おまえ、クセっ毛が治らないままなんだな」

 そう言われて思わず左側の頭を触る。俺のような業界人は印象に残らないことも一つの技量だ。クセっ毛などは率先してつぶしているはずだ。

「相変わらず、下らない手に引っかかるんだな」

 そう言って男は笑った。親父、あんた、生きていたのか。

「おまえ、こんなところで何してるんだ? まあ、聞かなくても大体わかるんだけどな」

 そう言って父親は豪胆に笑う。

 今この場で殺さなくては、大変なことになる。そう直感してはいた。しかし、同時に、殺してしまっていいのか、と考える。

「いやあ、マグロ漁船は大変だったし、肝臓を切ったら体調は悪くなるし、揚句中国には連れて行かれるし、まあ、逃げたんだけどな。とにかく、大変だったよ。なあ、昭代は元気か?」

 父親はそう言うとすぐ、まあ、いいや、と言う。

「おまえ、どうせ俺を殺すなり捕まえるなりしに来たんだろ? その風貌を見てると殺し屋か。まったく、やくざ者になりやがって。俺が言ったことを覚えてないのか、蛍雪の功、だよ」

「ずっと言いたかったんだけど、あんたにだけは言われたくない」

「まあ、それもそうだな」

 父親はそう言ってまたひとしきり笑うと、「で、おまえ、俺をどうするんだ。別に、捕まっちまったって、俺はかまわないんだが」

 そう言って、また俺に難題を突き付ける。俺はしばらく悩む。仕事を取るか。家族を取るのか。あんな父親だったとはいえ、嫌いだったわけではない。どちらかというと、その放埓な生き方に、憧れさえしていた。そして、決断する。

「仕事は仕事だ。俺はあんたをクライアントのところに連れてくよ。だって」

 だって、と言った後でどう言葉を継ぐか考える。何を言っても言い訳のようで、それはなんだか、ダサいような気がする。そして、すぐに正しい言葉があると気が付く。

「だって、どうせ、逃げられんだろ?」

 豆鉄砲を喰らったような顔をした後、父親はまじめな顔になる。

「そうだな、逃げるか。どうだ、昭代たちと一緒に、どっかにいって、またやり直すか」

 ううん、と唸り、俺は言う。

「それは、嫌かな」

「それは、そうだな」

 親父はまた笑い、さあ、行くぞ、行くぞ、と息巻いた。

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