耳鳴り

うおおおん、うおおおん。

 低く轟くのは獣の遠吠えか、はたまた機械の駆動音か。

 鈴木は次第に自分の意識が熱気に溶け出して、今にも雲散霧消してしまいそうなことに気が付いた。

 これさえ終われば、しばらくの休息が得られるはずだ。彼はそう考えながら指を高速で動かし、打鍵する。

 うおおおん、うおおおん。

 そもそも俺はどうしてこんなところに閉じ込められているのだ、と鈴木は考える。

 あれは羊だ、羊のせいなのだ、と思い出す。いや、それとも、兎だっただろうか。

 兎なら、少しは可愛げがあったかもしれない。あるいは彼は時計を持っていて、私を不思議の国に導くのだ。

 それでもあれはやっぱり、羊だったと鈴木は思った。

 羊が、彼をこの穴倉に落としたのだ。

 そんなことはどうでもよい、と鈴木は頭を揺すり、意識を目の前のディスプレイに向ける。ここへ連れてきたのが羊だろうと、兎だろうと、それはこの目の前に燦然と輝くディスプレイを打ち壊すわけでもなければ、それが映し出すデータの配列を変更するわけでもない。とにかく、そうした意味で現実に接続されているのは自分のみであって、決して羊でも、まして兎でもないのだ。彼はそう呟く。

「霧ヶ峰は」

 不意に後ろから声が聞こえて、鈴木は振り返ろうか、と逡巡した。しかし、それは自分の仕事ではないのだ、と考え、無視する。

「霧ヶ峰は、実のところ、成層火山だったわけだ。あれだけみんな楯状火山だって考えてたくせにね。学者なんて、みんなそんなものなのかもしれない。どれだけ頭でっかちに考えたって、現実はそんなところにありはしないのにね。馬鹿だねえ、馬鹿だねえ」

 喋り方と、そのコールタールの様にまとわりつく粘っこい声で、これはあの時の羊だ、と気が付く。俺をこの穴倉に放り込んだ羊だ、と。

 うおおおん、うおおおん。

 もしかしてこれが狼の遠吠えだったなら、羊なんて丸呑みにしてくれるのではないか、と鈴木は少し考える。しかし、振り返ることはしない。それはやっぱり自分の仕事ではないし、もし振り返ったとして、羊の不快なにやけ顔が自分の網膜に焼き付くだけで、何一つ得をしないのだから。

「馬鹿だねえ、馬鹿だねえ」

 羊は相変わらず繰り返している。どうせ、俺をここまで連れてくるときと同じくうんうん、と自分で肯いて、根拠もないくせに自分の意見は間違いないという風に言っているに違いない。

 栄養ドリンクの蓋をあける。つん、とした薬品の臭いが鼻につく。そしてそれを傾けると、胃の中をめがけて放り込んだ。

 からんころん、と音がして栄養ドリンクの空瓶がその小さな胃袋を跳ね回り、しばらく時間をおいてけたけたと笑った。

 いったいこの中には何が入っているのか、と考えることはそれだけで野暮なのだろうな、と鈴木は思う。どろりとした液体は胃の中で燃え上がり、自分を動かす熱量に直接的に変換される。

「朝鮮ニンジンは、疲労に薬効があります。無害です。カフェインが後押し」

 コマーシャル番組でキリンが叫んでいた言葉が頭の中を反芻する。彼はドリンクをあけると、やはりそれを放り込んで、けたけたと笑う。もしかしたらこのドリンクの笑い声はそれを録音しているのかもしれない。

 うおおおん、うおおおん。

「そう言えば、行方不明になっていたサメさんは、どこかの港で浮かんでいたらしいよ。サメさんなのに溺死なんて変だねえ、馬鹿だねえ」

 羊は何と思った風もなく、いつものあざけりを浮かべながら鈴木に話しかける。鈴木は返事をしようとも考えない。

「サメさんは良い奴だったね。ちょっと口と態度が大きかったけど、良い奴だった。惜しい奴を失くしたものだねえ」

 別に、誰のことだって変えの利く機械ぐらいにしか思っていない癖に、惜しい奴も何も、あるものか。そう鈴木は反射的に言いそうになるが、心の中で悪態を吐くにとどめた。

「僕は別に、誰のことだって変えの利く機械だと思っているわけじゃあないんだよ」

 羊は、鈴木の心を見透かしたように言う。

「そんな風に考えるなんて、馬鹿だねえ、馬鹿だねえ」

 うおおおん、うおおおん。

「怖い奴が近づいてるねえ。怖いねえ」

 羊がそう言うと、ぶるっと震える。鈴木は相変わらず周りに誰もいないのだ、とでも言うように無視を続ける。

「狼さんは怖いんだ。誰に求められない。僕にだって止められない。僕に止められないものが、他の誰かに止められるわけないもんね。怖いねえ、怖いねえ。でもね、あの狼は、僕たちが望んだ物なんだ。僕たちが望んだ終わりが、僕たちを食らいつくすんだ。馬鹿だねえ、馬鹿だねえ」

「あれから逃げるためにはね」

 うおおおん、うおおおん。

 羊は、それきりだった。それきり、何も聞こえなくなった。

 鈴木もまた、存在しなかった。

 シリンダーの中を、ピストンが激しく前後している。激しい前後運動は、回転に変換され、熱を生じる。時々、潤滑油がどこかから足され、少し鈍った動きがまた元に戻る。

 うおおおん、うおおおん。

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