差別と偏見――ズートピア考――

この土曜日、ようやく話題となっていた「ズートピア」を観てきた。

レイトショーで人もそこまで多くなく、実に快適に楽しく観られてよかったと思う。

さて、この作品が驚くべき大作であることはもはや言うまでもないことだが、せっかくなので私なりの視点で多少分析をしてみたいと思う。

テーマを挙げるなら、「ズートピアは何を描き、何を描かなかったか」である。

なお、この分析は当然激しいネタバレを含むので、観る気はあるけどまだ観てないという人は読まないことをお勧めする。

さて、全体のあらすじについてはいろいろな人がすでに感想等で触れているので省略するとして、まずは描かれていたものは何のメタファーであったのかを考えてみたいと思う。

詐欺師のキツネ、ニックが「黒人」を象徴していることはおおよそ明らかであると考えられる。

キツネであると言う種族ゆえに受ける非合理的な偏見、すなわち、犯罪傾向が強いというものは実際にアメリカ社会において黒人に向けられた偏見のひとつと重なり合うところがある。

また、ジュディとニックが出会うアイスキャンディー店での「この店はサービスをお断りする場合があります」というのが黒人排除を想起させることも疑いえない。

一方新人警官、ウサギのジュディは「女性」を象徴しているように思われる。

「ウサギだからかわいいっていうのはちょっと……」というベンジャミンに対するコメントは、端的にその象徴性を示していると言えるだろう。

すなわち、「女性ゆえ」の評価とそれに対する反発がこのやり取りには示されている。

そうした視点で見ると、ジュディとニックが受けてきた「差別」は必ずしも質において同様のものではないということが浮かび上がってくる。

子供時代のニックはレンジャースカウトに志願するが、キツネという種族ゆえに反発を受け、それがトラウマとなったことが描かれる(どうでもいい話だが、私自身カブスカウトをやっていたことがあり、二本指の敬礼が大変懐かしく感じられた)。

これは「キツネ=ずるい、信頼できない」というステロタイプに基づく差別であるとともに、それが全く根拠のないものであるということは成長したギデオンの姿などに表彰されている。実際、警察署で見られる逮捕された動物を見るに、キツネが多いという事実はなさそうである。

一方で子供時代のジュディは「ウサギが警官を目指すなんて!」というギデオンや両親の反発を受ける。

これは必ずしも根拠のないものではない。それは警察学校に入ったジュディの姿を見れば一目瞭然である。

この作品では、過剰なまでにウサギの体躯の小ささが戯画化されて描かれている。当然このサイズのウサギが、例えばバッファロー(ボゴ所長のサイズ)を取り押さえることなど、できはしないであろう!

だとすれば、ギデオンはともかく、両親の説得はもっともらしい。父親自体、「自分も夢をあきらめてニンジンを育てている」という通り、明示こそされていないものの過去に何らか体躯の問題で夢をあきらめざるをえなかったということが示唆されている。

ここではっきりと、ジュディとニックが受けてきた差別は必ずしも共通の問題ではない。

次のメタファーは、もちろん「ズートピア」それ自体である。

ズートピアという街は何を象徴しているか? これは、もう露骨すぎるほど露骨である。それは、アメリカ合衆国そのものだ。

ズートピアの中にある複数の気候の違う区は、(作品中では全くの人工的なものであったが)アメリカの広大な領土を示しているだろうし、何より、これだけ様々な種族が共存しているというのは人種の坩堝たるアメリカ社会そのものだ。

「ズートピアでは、なりたいと思えばなんにでもなれる」という言葉は端的にアメリカ社会を示している。

また、この意味では「種」が「身分」に近しく描かれていることも明らかになる。

映画で描かれた世界は必ずしも種族が共存しているわけではないように思われる。というのも、都会=ズートピアにおいては種が共存しているとはいえ、一歩郊外に出ると(たとえば、バニーバロウを見よ)、そこは単種から多くとも数種がいるのみである。そしてそれによって経済社会が成立している。まさに中世的な意味での「村」なのである。

さて、少しzootopiaという言葉について考えてみたい。

この言葉がZoo + Utopiaであることは間違いないのだが、Utopiaという単語がもともと「理想郷」とともに「どこにもない場所(ou=無い + topos=場所)」から生じていることを意識する必要があろう。

ライオンハート市長は、ズートピアを動物たちの理想郷としたいと表明する。

しかし、現実にはズートピアは決して理想郷ではなかった。交通システムなどに見られるユニバーサルなデザイン、様々な生態に合わせた区分け。外見的に成立している理想郷は、果たしてそうではない。

実際、ジュディの輝かしい夢はあっさりと打ち砕かれ、ニックは詐欺師として生きていくことを強いられる構造がそこには存在する。

肉食のライオンハート市長と草食のベルウェザー副市長による統治がなされているが、実態としてはライオンハート市長の独裁体制である。

建前と現実の遊離はこれでもかという程に示されている。

これはまた、しかしアメリカ現代社会の痛切な問題意識なのであろうとも想像が及ぶ。

黒人と白人は今や法的権利の下では全くの平等ではある。もはやDred Scottの時代は終わり、それぞれが市民として対等なのである。

しかし、現実においてはどうであろうか。未だに実質的な差別が解消されたとは言いづらいのではないだろうか。それはオバマ大統領が黒人初の大統領になっても(ここにライオンハート市長の寓話性が読み取れるかもしれない)変わらないことなのである。

しかし、物語の終盤、少なくともZootpiaはUtopiaに近づく。肉食⇔草食の対立は解消へと一歩近づき、ウサギ初の警官に続き、キツネ初の警官が誕生するのだ。

ここにはEutopia、どこにもない場所ではない、Utopia、理想郷へと向かうことがアメリカ社会には可能なのだという力強いメッセージを読み取ってもよいかもしれない。

さて、すこし話がそれたがニックとジュディに戻ろうと思う。

先ほど示した通り、社会構造の部分をニック、ジュディがそれぞれ象徴として背負っていることは明らかだが、同時に彼らは全くの個人的な問題も抱えている。

ジュディは正義感ゆえの視野狭窄を明らかに抱えているし、また、夢のイメージに過剰に執着する性格であると言える。

このこと自体が物語中盤の破滅につながるのだが、これは後述しよう。

ニックは過去のトラウマから、却って自らをそのイメージに自己規定することで自らを守って生きるという選択をしている。

さて、ジュディの視野狭窄は、「半日で200件の駐車違反取締」に露骨に表れていると言えるだろう。

これは一方には「頑張り屋」という評価も可能であろうが、一方で、作中で、「たった30秒遅れただけで!」と言われるように実際に目の前にある現実を直視していない(念のために言っておくと違法は違法なので必ずしも間違った態度ではないのだが)。そしてここには「思うように輝けない自分」や「自分を輝かせてくれない環境」に対する苛立ちが見て取れる。彼女は非常にステロタイプ的なものの見方を実は自分でしているのだ。すなわち、警察の仕事とは大捕物であり、それ以外は些末事、自分の行うべき職務ではないのだ、と。

ステロタイプ的なものの見方を「される」事に反発し、一方で自らのステロタイプ的なものの見方に非自覚的である、ということは案外普遍的な問題なのかもしれない。われわれも自らが差別を受けることには敏感であり得るが、その裏で自らが全く自覚なく差別的な態度をとっていることは必ずといってよいほど、ありえることである。

ここにズートピアの妙はある。

被差別者はかわいそうだ、差別はやめよう、というようなメッセージは世の中に腐るほどあるし、差別を語るのであれば、問題意識とすらいえないくらい当然のことである(これ抜きにいかなる差別を語り得ようか!)。

しかし、被差別者は同時に他の利益集団に対しての差別者であり得る、また、利益集団のくくりは流動的なものであって、あらゆる人は複数の属性を自らのうちに持っているのだ、という問題意識を底流に携えている二段構えがズートピアが差別問題について真剣に、真正面から向かい合った作品であることの証左といえるであろう。

このジュディの自覚無き差別は中盤の破滅につながる。

彼女は、潜在的に「肉食動物は危険だ」というステロタイプを有し、そしてそれを、あろうことか記者会見の場で表明してしまう。彼女の理性はあらゆる動物は平等であり、共生が可能なのだとしており、それには当然肉食動物も含まれる(彼女の幼少期の劇を見れば一目瞭然であろう)。しかし、無自覚的な自我の部分では、やはり肉食動物は本質的に(作中の言葉を用いれば"生物学的に"、"DNAにおいて")危険なものだというステロタイプがしっかりと根付いていたのである。

ニックはその記者会見を聞き、そして彼女が常に持っている「キツネよけ」を見て、彼女がまた一人の肉食動物(あるいはキツネ)に対する差別主義者であることを見抜き、彼女のもとを去るのだった。

その際にジュディの言った「あなたは違う!」という言葉がどれだけ空疎なものであるかは見せかけの平等社会に辟易しているニックには明らかであっただろう。

実は、ここにこそ本当の「差別問題」があるのだ。

悪意ある差別者を非難することは簡単である。しかし、差別というものは、差別という認識がないところにこそ本当は潜んでいる。偏見というものは、どこまでも自覚的に払拭しなければなくならない。われわれは誰でも気を抜けばいとも簡単に「差別者」になり得るのだ。

そしてこれは作品の上で「仕掛け」として視聴者に意図的にメッセージングされている。

多くの視聴者は、作品の途中までズートピアにおいて肉食動物が社会的に強い立場を持ち、草食動物を差別する存在として映っていたのではないだろうか?(少なくともそう感じさせるような描写はZPDの警官たちを見ていると明らかに思われるし、ライオンハート市長は明らかにベルウェザーを軽視しているように描写されている)。

狼たちが警備する廃病院でライオンハート市長が出たときに、何か「安堵」のようなものを覚えなかっただろうか?

すなわち、「ああ、やっぱり」だ。

ここまでの描写は明らかに肉食動物を強者として描いている。しかし、その後の展開はそうではなかったという実情を示す。

まず、ズートピアにおいて肉食動物が10%程度しかいない、絶対的な「少数者」であることが明かされる。

そして、黒幕のように、あるいは権力にしがみつくものとして描写されていたライオンハートは、必ずしもそうではなかったのだと示される。

この事件の黒幕は他にいる! それは、哀れな被差別者として描かれていたベルウェザーであった!

このどんでん返しはストーリー制作の妙であると同時に、メッセージをより強化する仕掛けでもあった。

ベルウェザーは自らの体験から、肉食動物を追放しようと暗躍する。肉食動物は犯罪傾向が強く、危険であるので、追放しよう! ……まさにステロタイプ化である。

しかしこの反転まで視聴者は、ベルウェザーを哀れな被害者、ジュディと同じく差別を受け続けてきたものであると認識していたのではないだろうか。

少なくとも、彼女が悪人(悪羊?)であるとまで想像を巡らせなかったのではないだろうか。

われわれは、映画の中にまでいとも簡単に偏見を持ち込んでしまうのだ(私は少なくとも、肉食動物が被差別的立場にあるとは浅慮にも考えられなかった)。

次に、この作品の置かれたディズニー史上の立ち位置を少し考えてみようと思う。

「ディズニー・プリンセス」ものの一系列にこの作品は異端として組み込まれているのではないか、というのが私見だ。

何故異端であるか、ということは言うまでもない。この作品は「プリンセス」を否定する作品だからだ。

この作品の描かれたテーマが「差別と偏見」であると言うことは上に述べた。とすれば、この作品が目指すところは、身分・地位の解放、差別と偏見のない平等という理想であることはほとんど疑いがないだろう。

そして平等、身分・地位の解放ということはすなわち「プリンセス=貴族主義」を否定することだからである。

このことは、おそらく意識的に行われている。

泥棒で海賊版売りのデュークはそれまでのディズニー作品(のパロディもの)を海賊版として売っている。メタ的ではあるが、この作品がこれまでのディズニー作品に対して外から物をいう立ち位置にあることを示唆しているのではないか、と考えられる。

そして、作中でボゴ所長はジュディに対し、「"ありのままに"を受け入れるんだ」と言い、ジュディはそれに反発し、最終的には"ありのまま"のウサギ性を飛び越えてしまう。これは「アナと雪の女王」という作品の示した個人像を「ズートピア」は継承しない、アナ・エルザというプリンセスをジュディという「庶民」が超克するということが暗喩されていると考えられる(尤もこれは「アナと雪の女王」で示され、独り歩きした"ありのままに"像を回収したという見方も可能であろう)。

もちろん、「アナと雪の女王」自体ディズニーが築きあげてきた古典的プリンセス像(それはしばしば白人至上主義的であるとも言われる)を打ち砕くものとして描かれていると言えるだろうが、本作が提示する主人公像はさらにそこからプリンセスという身分すらも剥奪・解放したものととらえられる。

ディズニーという文脈の変質が萌芽しているという視点からは、今後の作品による新たな文脈の生成が待たれるところである。

さて、遺漏も多々あろうが、ズートピアにおいて「描かれたもの」、すなわち「差別と偏見」について多少の分析がかなったのではないかと思われる。ところで、せっかくなのでここにおいて「描かれなかったもの」も多少触れてみようかと思う。

ここで参考に挙げたいのが、雷句誠の作品である「どうぶつの国」である。

この作品は、人間以外の動物しかいなくなった世界にどこからか流れ着いた一人の人間、タロウザが主人公として、全ての動物の友和を図ろうとするものであり、ズートピアの問題意識とかなり一致する着眼点が存在すると思われる。

この作品が漫画作品として成功をおさめなかったことは、おそらくこれを読んでいる人がこの作品を知らないであろうことが証明しているのだが(おそらく代表作である「金色のガッシュ!」は名前ぐらい聞いたことがあるのではないだろうか)、ズートピアでは触れられなかった(あえて触れなかったとも考えられる)重大な問題に真摯にコミットしようとした作品でもあるという評価は忘れずにしておきたい。

その問題とは、「言語」による共同体の規定、そして「食べ物」の問題である。

「どうぶつの国」では「ズートピア」と同じく動物が一定の知能を有しているという設定が存在するが、言語は同種族間でしか通じないと言う違いが存在する。すなわち、タヌキはタヌキ(タロウザの義母となるモノコはタヌキである)とライオンはライオンとしか会話ができないのである(もちろん同種族という定義がどこまで厳密かは不明だがひとまずそこは捨象する)。それに対して「ヒト」種はあらゆる動物と会話ができるという特殊な能力(鳴き声)を有している。この特殊なタロウザの視点が持ち込まれたことで同種コミュニティは、それ以外の種と接触が持てるのではないかという概念が提示される。実際に、ヤマネコのクロカギを仲間に引き入れ、様々な(草食)動物を仲間に引き入れて「村」を作っていく。

「言語」はコミュニティを規定する。ズートピアで描かれなかった一つの問題がここにある。

あらゆる異種は「言語」を共有しているがゆえに、ズートピアという共同体を生成することが可能となっている。だが、画面に映るのは哺乳類ばかりである。では、その共同体のくくりに鳥類は入っているであろうか? 魚類は? 両生類、爬虫類は? 昆虫は?

これは「食べ物」の問題と連関している。

ズートピアで描かれなかったもう一つの、そして重大な問題として、「肉食動物は何を食べて生きているのか?」が挙げられる。

実際、草食(および雑食)動物の摂食シーンは様々あるのだが、肉食動物の摂食、すなわち肉を食らうシーンは一切ない。

一応虫が食料源となっているそうだが、ズートピアの一割とはいえ、肉食動物の腹を満たすに十分な昆虫が存在しているのだろうか、という疑問は提示される。

そして、「ズートピア」の世界においては、肉食動物が草食動物を食らうことは「禁忌」であると言えるだろう(人間が人間を食べたらおおよそ大変な道義的問題を生ぜしめることは疑いがあるまい)。しかし、種族が異なるのにどうして禁忌たりえるのか、やはりそれは「言語」を共有する「本質的に自らと近しい」主体であるからであろう。

では、哺乳類以外の生物についてはどうなのであろうか。言語が通じないゆえに食べる対象となるのであろうか。ここはズートピアの少なくとも本編では(おそらくあえて)触れられていない問題である。

「どうぶつの国」はこの問題に果敢にも挑戦した(そして敗退した)、

タロウザは「永遠の実」と呼ばれる、肉食動物の腹をも満たせる作物を求めて紛争するのだが、それが青年編のキモの一つである。

そして、タヌキは魚を食べる。しかしそれは無条件ではない。タロウザは「魚の声」が聞けないのである(おそらく鳴き声が物理的に聞こえないからであろう)。ゆえに魚は「かわいそう」ではないから食べられる、と正当化をする。

どうぶつに種を表象させて社会を描くとなると必ず問題となるであろう言語及び食物という壁を(おそらくすでにクリアしたものとして)無視して描く「ズートピア」はそうした意味で、共同体の外延という一つの困難な問題は「描いていない」といえるだろう。

何故あらゆる動物が平等な社会でありながら、昆虫はその範疇でないのだろうか。なぜ哺乳類以外の生物は描かれないのであろうか。

どこまでが「人格」を共有し、「権利の主体たる」「平等で尊厳のある」共同体の一員なのだろうか。その問題は未だに解決されずに留保されているのではないか、私はそう考える。

以上、一度だけ見た感想なので誤った解釈なども多々含まれているだろうが、雑然と心に抱いた感想を多少分析してみたものである。

尤も、私自身はアメリカ社会に詳しくなく、一種「ステロタイプ」で語っている面が大いにあるであろうし、そうした意味で見逃している問題意識や論点も種々あると思われる。

しかしとにかく刺激的で面白い、ディズニー史に残るであろう大作を劇場で観ることができて大変よかったと思う。

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