『死』への追想


『死』とは何か。
いつだって私たちは「人の命とはかけがえのないものである」と言い聞かせられながら育ってきた。
そのかけがえのないものが失われる『死』が目の前に横たわった瞬間に、
圧倒的な『死』というものを突き付けられ、
己の無力さをまざまざと思い知らされるのである。

幼いころ、祖父の『死』に立ち会った私は、ただぽろぽろと涙を流すしかなかった。
何が悲しいのか。それすらも良く分からないままに、
ただもう会えないという漠然とした喪失感と同時に
自分は何も手出しができないという無力さが悲しみを増幅していたのかもしれない。

「なぜ、大切な人が私の選択ではないところで私から半永久的に離れてしまうのか。」

きっと、自身ではコントロールできない事に人は恐れを抱く。
同時にそれを期待してしまう自分もどこかにいるはずなのだ。
それ以来、私は『死』とは、その存在を自己から最も遠い場所へ引き離す事。だと思うようになった。

しかし、不思議な事に死んだ瞬間から、その人の『死』はその人を離れる。
何故か、自己から最も遠い場所に引き離したと同時に、自己の最も近いところに存在するようになる。
例えば、夫に先立たれた妻は、何かを決めるとき、あるいは何か危険な目にあいそうになった時、「お父さん(夫)が守ってくれたのね。」と口にする。少なくとも、私の祖母はそうであった。
死んだがゆえにもう会えないはずの存在は、その人の心という最も近い距離に存在する事となるのだ。

同様に、誰かが亡くなった後、「○○さんだったらきっとこう言うだろう」という言葉も同時に耳にするようになるのだ。
私はこのようなときに、「『死』はそれが起こった瞬間にその人のものでなくなる」と感じるのだ。
死んだ人がこう言うであろう、こう感じるであろう、と勝手に決めつけられ、その人がさもその様に言っているかのように語られるのである。
どれもこれもその人が本当に感じているかなど分からないのに、「無念だっただろう」と人々は口にするのだ。

これを良い悪いと言いたいのではなく、その人はそれ以降何も主張する事が出来ず、都合の良いように語られるのだろう。何者かの代弁者として。
そこに何とも言えぬ喪失感と無力さが混じっているのだろうか?
私はこの奇妙な感覚に名前をまだ付けられない。

「『死』とは神秘である」

何者かの『死』に際して、私はこのようにも思うのだ。
『死』をまざまざと突き付けられた瞬間に、私は『死』を思い出す。
そして、同時に『生』の実感で頬を叩かれるのだ。

「生きている事が素晴らしい」なんて人間賛歌を歌うつもりも毛頭ないが、
それでも『死』に対峙した時に、『生』の奇跡を見せつけられる。
まだ、何かできる事があるんじゃないかと自分に問いかけてしまう。
生きていればなんでもできる。そう思ってしまう。
無論、思うだけで何が出来るようになるわけでもなし。ただ、『死』という出来事が目の前に存在するだけで、何かを思わずにはいられなくなるのだ。

少なくとも私は、死者に畏敬の念を。自分の生の責任を。人類・生物の不可思議を思わずにはいられない。

「それでもやはり『死』は怖い」

概念的に『死』を語ってはみたものの、やはり死ぬには勇気がいるのだ。
何かわからないけれど、ものすごく怖い。
自分がいなくなる恐怖なのか、痛みへの恐怖なのか、自分がいなくなった後の誰かの姿なのか、ぐちゃぐちゃに混ざった感情が「怖い」のだ。

それ以上にこの世界に失望してしまった「自殺者」たちは最期に何を思うのだろう。
何らかの形で不意に『死』へと突き落とされてしまった人々は何を感じたのだろうか。

私は多分、『死』そのものではなく、『死』によって取り残された人々の、言葉にならない痛み、抉られた心、もう戻らないという無力さ・無念さ、
一つ簡単な言葉を使うとするならば「悲しさ」が一番怖い。

取り残されるのだ。
『死』という現実だけを突き付けて、去っていった者から。
同じ体験を語る事も出来ず、
ひたすらにその瞬間から断絶させられるのだ。
どこまで行っても、どこにも行けず、替えがきくわけでもない、その悲しみと付き合っていかなければならない。

私はたまらなくその現実から逃げ出したいのに、どこにも逃げ出せないのだ。

『死』はあなたに何を思わせるでしょうか?

これを読んでいるあなたは、『死』と対峙した時になにを思うでしょうか?


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