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劇場版モノノ怪「唐傘」- 女の園、極彩色の群像奇譚

※映画本編のネタバレがあります

2007年に公開されてからというもの、根強い人気を誇るアニメ、「モノノ怪」。

この作品がどれだけ愛されているかといえば、2020年に開催される予定だった深夜アニメ枠ノイタミナの15周年イベントにて、ノイタミナ 15周年記念プログラム ~あなたが選ぶ思い出の3作品~なる投票が行われた際、2005年〜2009年の人気のアニメ第1位に選ばれたほどだ。

残念ながらこのイベント自体は新型コロナウイルスの影響でとりやめになってしまったのだが、もしかしたらこの投票が功を奏したのだろうか、2022年の夏には映画制作が決定され、多くの人が驚きと喜びを口にしていたのを覚えている。かくいう私もうれしさに小躍りしていた記憶がある。

それからはまぁ、本当に様々なことがあったが、劇場版三部作の初作となる「唐傘」が、先週めでたく公開された。


今回の舞台は「大奥」である。

情念渦巻く花の園。天子に仕える女たちの絶対領域。華やかだが、その下には何が流れているものか。

 男子禁制の“女の園”であり、重要な官僚機構でもある場所・大奥。この場所でキャリアアップを図ろうとする新人女中のアサと、同じく新人女中で大奥に夢を求めるカメは、着任早々、集団に染まるための“儀式”に参加させられる。御年寄の歌山は大奥の繁栄と永続を第一に考えて女中たちをまとめあげるが、無表情な顔の裏に何かを隠している。そんな中、彼女たちを少しずつ“何か”が覆っていき、ある日決定的な悲劇が起こる。モノノ怪を追って大奥の中心部まで足を踏み入れた薬売りは、やがて大奥に隠された恐ろしくも切ない真実にたどり着く。

劇場版モノノ怪 唐笠:作品情報 映画.com/https://eiga.com/movie/97377/

あらすじとしては以上の通りだ。(ちなみにこのノートにストーリーそのものについての感想はほとんどない。書き手が構造のオタクであることと、ストーリーラインを論じることができるほどあれこれ覚えていないがことが原因だ。)

まず最初に、この作品にはいくつかの重要なテーマがある。

そのひとつが「三」だ。

劇中で三角をはじめとした「三」のモチーフは何度も繰り返される。

城中の大奥、中奥、表の三構造。大奥にそびえたつ三柱鳥居。三角の桶や升。唐傘による三人の犠牲者。唐傘の目の三つの虹彩。井戸の下の地下空間で、仏舎利塔を封印するように括られた三本の縄。縄のもう一端を支える三本の柱それぞれに描かれた三貴神(天照大神、月読命、須佐之男命)。地下の壁に描かれたキリストを思わせる男性の絵や天子の光輪を備えたデザイン、御鈴廊下の「悦楽の園」にも似た美術を見るに、神-キリストー霊の三位一体のイメージもあるのだろう。

そして言うまでもなく、この映画そのものが「三」部作だ。
『唐傘』の最後で仏舎利塔と月読命の柱の間の縄が引きちぎれたのを見るに、第二部火鼠で二つ目の縄が、第三部で最後の縄が切れることで、制作陣の言う「退魔と救済」が完成されるのだろう。

また「水」も巨大なテーマとなっている。

大奥には「御水様」なる信仰体系があるらしい。大奥の女たちは儀式的に同じ水を飲む。井戸の水には彼女たちが捨てたものが浮かび、滞留し、思念の坩堝となっているようだ。部屋の壁(襖だったか)には天気雨の時に行われるとされる狐の嫁入りの絵が描かれている。唐傘は人を雨にし、最後には嵐を伴ってやってくる。雨は苦難のイメージとしても現れるが、最後に降るものは紙吹雪である部分も印象的だ。

ところで、モノノ怪で「女」「子」ときて「水」が続くなら、そのイメージは羊水か、踏み入ってはならない禁域としても現れるだろう。アニメシリーズの座敷童子、海坊主がその例である。フキと天子が水を飲ませあうシーンで足元にぼたぼたと水が滴る様子は破水を思わせる。夜伽の間の床に薄く張られた水は、そこがある種の聖域であることの証左だろう。

また井戸の水場の中心に位置する仏舎利塔は、前述のとおり三貴神に囲まれている。彼ら三柱と縁のある神として、蛭子命がいる。彼は天照大神と月読命の後、須佐之男命の前に伊弉諾と伊弉冉の第三子として生まれたが、不具の子として流されてしまった神で、水子の守護神としても祀られている。女・子・水と来たなら、やはりこの神だろう。また去年ヒットしたゲゲゲの謎でも見られた表象だが、地下に巨大な空間を持つ井戸は、時に子宮と産道のイメージを持つ。あの空間もまた揺籃であり禁域なのかもしれない。あの場所に安置されているのが蛭子命に関連するものならば、最後の縄が切れたときに一体何が生まれるのか、気になるところだ。


また「水/雨」と呼応するのが、タイトル『唐傘』が代表する「傘」だ。

傘のモチーフは座敷童子にもみられる。座敷童子においては雨は身重の志乃を襲う苦難であり、傘はそれを振り払おうとする意志であった。

唐傘ーー唐傘お化けは、一つ目に一本足の妖怪であるとされる。平成以降には少しずつ付喪神として捉えられ始めたようだが、本来は特段詳細な逸話を持っているわけではないようだ。

しかしモノノ怪における『唐傘』の始まりは、まず大奥という組織空間が「お前が捨てるべきものを捨て、なるべきものへなりなさい」というふうに迫るシーンから始まる。大切なものとは言わずもがな、その人の情と思念がこもったものである。そういう点で、あの傘は付喪神的な性質を持つのかもしれない。

また北川の捨てた人形が持っていた唐傘は、モノノ怪と化してのち、本来雨から身を守るための道具であるはずが、翻って人を雨にし、嵐を宿す、という反転を起こしている。怪異としては正しい矛盾だろう。

最後に、「目」も同じくよく見られるモチーフだといえる。

劇中で、壁や襖に描かれた生き物たちは、目の前を通る人物のことを何度も「見る」。平面に描かれた目がぎょろりと動く様子は不気味だ。個室で会話する三郎丸と平基のもとににじり寄る何者かの「目」も、ホラーとしては定番の演出だがやはり不安を掻き立てる。御鈴廊下、夜伽の間と茅の輪の間の暗い廊下、突き当りの扉、夜伽の間、にも視線がひしめいている。北川の人形は目が片方欠け、唐傘が出現するときの水玉模様は目に見える。そしてクライマックスでは上空に巨大な目が出現する。

視線は本来おそろしいものだ。よく知らない他者から送られる批評の目は不愉快だろうし、暗闇から視線を感じれば恐怖を感じる。女ならば猶更数多の「目」にさらされる。こちらを的確に嫌な気持にさせる、いい演出だ。

目といえば、『唐傘』ではよく視点がまじりあう。
現在は過去であり、過去は現在であり、あなたはわたしであり、わたしはあなたであり、わたしはここにいて、わたしはここにいない。同じ登場人物が同じ紙面に何度も現れる古い絵巻のように、時に複数の叙述が同時に存在するのだ。

北川がアサと話しているとき、北川はときにアサだったし、カメが淡島に髪を切られたとき、カメはときにアサだったし、そして終盤の井戸のそばでは、誰もが誰かのIFだったのではないだろうか。幾度も交叉する視点、入れ替わる人物の様相からは女たちの間の紐帯、あるいは大奥に課せられた呪いが見える。


モチーフの話つながりで、美術の話に移ろう。

モノノ怪の美術レベルは異様なほど高い。カメラは基本平坦な長回しを避け、ズームやPAN(水平・垂直方向へカメラを振ること)はあまり使わず、あらゆる角度からのワンショットやインサートを連続するかたちで場面が示される。目元に思い切り寄ったり、室内の装飾を駆使した奇抜な構図を用いたり、遠近感に囚われないのも魅力だ。すべての画面が一枚絵として完成されている。

化猫の駅でのシーンがわかりやすいだろう。

モノノ怪 化猫:序ノ幕

「人で混雑した駅」を描くうえで、モブを顔のないマネキンとして描いている。すごい技だ。背後に広がる環境ごと美術的に見ごたえのあるものに仕立て上げている。『唐傘』のぐるぐる顔にも同じエッセンスが感じられる。

また背景の密度が高く、古今東西の様々な美術が引用されることも特徴だろう。以下に簡単に例を出すが、気になる方はまとめてここを見てほしい。

モノノ怪 座敷童子:前編
狩野芳崖:悲母観音図
モノノ怪 鵺:前編
長沢芦雪:白象黒牛図屏風

モノノ怪では、こうして空間が人と同じぐらいに雄弁になる。

『唐傘』の麦山の部屋を見てみると、なんとも子供趣味だ。壁に描かれているのは手毬で、襖にはでんでん太鼓や風車で遊ぶカエルたちがいる。ところせましと並べられたコケシのなかには縄でくくられて逆さに吊るされたものもある。悪趣味でややサディスティックな気配すらするが、彼女の子供のように率直な底意地の悪さがよく反映されている。

淡島の部屋についてはあまりしっかりと確認できなかったのだが、どことなく歌山の執務室に似た配色だったように思う。彼女は歌山に憧れ、期待されたいと思っているようだったから、意図して真似ていたのかもしれない。

アサとカメの部屋の壁には芦雪の子犬がいた。あどけない新人にはぴったりのデザインだろう。

他にも数えきれないほど美術的リファレンスはあるはずだが、一周目の時点では「うわー! すげー!」と思っている時間の方が長くていまいち覚えていない。また気が向けば追記していく。


ストーリーのなかで特に記憶に残っているのは、淡島が亡くなったシーンだろうか。(大切なものを)捨てたくなかった、と錯乱したように呻く姿が印象的だったのだが、後に女中が集まっているシーンで三郎丸らが「即身仏のよう」と言っていたとおり、皮肉なことに、まさに彼女は欲を「捨てた」姿で死んだのだ。

また、カメとアサは手をつなぎ、一緒に大奥へ足を踏み入れたが、アサだけが大奥に残った。この流れ自体はアサのカメへの愛情を、そして彼女の決断力を見せていて、納得のいく別れではあると思う。しかし大奥は何も変わっていない。まだ謎はいくつも残っているし、祓うべきモノノ怪は少なくともあとふたつ存在する。それを示すのが残された二つの縄、つまり三位一体の構造であるわけだが、この構造は同時に家父長制の象徴でもある。結局……破壊か? 破壊しかないのか? 大奥を破壊することになるのか?

退魔と救済とはどのような道を辿るのだろうか。


他に胡乱な感想を言っておくとすれば、坤の薬売り、でっか……手、ごつ……とかだろうか。離の薬売りはかなり女性的でしなやか、幽美な雰囲気だが、坤の方は顔がねこちゃんでかわいい。坂下さんとのやりとりも妖:化猫での小田島さんとの会話を思い出す雰囲気で懐かしい気持ちになった。あと岩崎琢の音楽が大好きなので各所で心の中で盛り上がっていた。

続編が待ち遠しいが、公式アカウントが劇場版公開にあたって初出の世界観設定を次々に投下しているようなので、まずそれらから追っていきたいと思う。

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