生きていく上でのしあわせを得るハードルを低く設定する生存戦略
※2013/5に書いた文章です。こちらにも自分の記録で残しておきたく。
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日々、思考を言葉にし外部化することを続けてきた。
その理由は、思考を言葉というフィルターに通すことで、ノイズが削ぎ落され、かつ、自分が今現在は言葉にできないことの選別がされ、自分の腑に落ちる言葉だけが残る、という「整える」作用を求めていたからなのだと思う。
研究や論文に限らず、日々用いる言葉を”定義化する”ということも、言葉によって行動を規定させる、という「整える」作用を求めてのものだったのかもしれない。
自分にとって大切なことを、自分の言葉で定義化する
私はハタチの時、「成長」を「昨日とは異なる言葉で、自分の大切にしている事柄に対し、新しい表現を得られたとき」と定義した。
今、ひとつ言えるのは、その定義は、「生きていく上でのしあわせを得るハードルを低く設定する」という自分にとっての生存戦略であったのだな、ということ。
その定義により自分は誰よりも「成長を日々感じられる」しあわせを得るハードルの低い人間になった。
でもそこまで下げてしまったハードルは容易には上げられない。そのカウンター装置として、適度な劣等感を得ることのできる存在を近くに持つ、という方法をとってきた。そうでないと堕落すると思った。
適度な劣等感を得ることのできる存在を近くに持つという方法をとることで、低いハードルを飛び越え、日々のしあわせポイントを貯めつつも、「どうしても、この人には敵わない自分という存在のどうしようもなさ」という劣等感を視界の隅に入れることができた。
どこで、適度な劣等感を得るか?
「どうしても、この人には敵わない自分という存在のどうしようもなさ」という劣等感を得るには、定期的に異なるコミュニティに属するということが一番だと思っている。
蓄積された関係性の情報量が多いコミュニティからは安心は得られるけれど、劣等感や危機感は得られない。新しい学びの場を得たり、職場を変えたりすることもその一例だ。
新しく属するコミュニティには、当然、蓄積された関係性の情報量はゼロからはじまる。丸裸で新しいコミュニティの地を踏むことで、自分に何が足りず、そして、自分の培ってきた何が新たなコミュニティにおいても有用なのか?という自分のモチモノの点検作業をすることができる。
自身で為した”成長の定義”に則り、低いハードルを日々超え、しあわせを得る。
新しいコミュニティを転々とし、劣等感と危機感を得ながら、自分のモチモノを点検しつつ、徐々にハードルの高さをあげていく。自己実現欲求を得つつ、こっそりと欲求の天井を高くしていく。このサイクルが自分には一番あっているようだ。
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