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他人を巻き込まず一人で○ね

 橋本さんのこの発言に是非が戦わされています。あまり見て気持ちのよい漢字ではないので○にしました。見つけにくい記事になりましたらすいません。
 是非を論じる前におかしくないだろうか?と感じるのがいつものスタイルです。今の世の中、現場は決着ついていないのにムリヤリ決着している話というのがあり、終わりなく論議を呼んでいますが、例えば原発問題。そして安全保障。ここ、最近で急に表面化し実体化してきたお話がいくつもある分野ですが、正直、多くの人が納得できる決着はついていません(進行しているのに)。それどころか事業者や省庁に隠蔽その他の不始末が続く状態。
 最終的に行政を信頼することでしか前に進まない部分が大きいのに信用を失う事を繰り返しています。この空気の中で強硬に事を進めるので殊更に反発が生じるのは当然なのですが。

 この二つの例を出したのは国民の生命に関わるお話だからです。

 橋本氏は国と行政に「国民を巻き込まず一人で○ね」と言ってはどうでしょうか?

 原発事故は関連○含めて多数の人が犠牲になりました。倒壊した家屋で亡くなった方も多数いますが、救助はできませんでした。放射性物質の汚染がひどくて災害現場への立ち入りを禁止されたからです。国会で「電源喪失はあり得ない」と主張し原発を再稼働したのは安倍総理です。多くの人の命に関わる判断なのに見切りで稼働を正当化し、危険を矮小化しました。当時の経産相だった甘利氏の問題は訴訟まで発展している事は度々指摘されています。成り行き上、2人を例に出しましたが原発を推進してきた人たちが、自分たちの都合に他人を巻き込んだ結果の惨状です。

 安全保障は自衛隊員の身を危険に晒す事が前提となりますが、その危険度は増しています。しかし行政の人たちはどこか他人事で自分たちが最前線に赴く事はなく、危険な目に遭うのは他人、という前提の「お話」をしています。「巻き込まず一人で○ね」とはそういうことではないでしょうか。

 ですので、橋本氏の批判点はその言葉でなく、向けられる方向の選択性にあると思います。納得できない人が出てくるということは彼の独りよがり、つじつま合わせ、正当化ではないかという疑問は当然出て来ます。こういった疑問に対し、彼はことごとく強引な持論を展開してきました。
 なんでもない事と思うかもしれませんが、相手の納得を引き出すという点では大きな差で、原発を東京に作ると言った石原慎太郎さんとの違いでもあります。(作家と弁護士の違いが顕著に出ていて興味深い)

 強制力があり、広範に関係者を持つ議論に批判が全く向いていないというのも言葉のあしらいに公共性(もしくは大儀)がなく、無責任な気がします。

 メッセージは三つです。

1. 権限を持って生命に関する選択を強いている人に対しては無言である一方、誰が見ても批難される対象には軽々しく生命を弄ぶ言葉を用いるのは軽薄ではないか。事件で傷ついた人たちがこんな荒んだ言葉で切り刻まれたいだろうか。

2. 「巻き込まない」ことは難しい。過去の選択や行動、どこかで繋がっている事の方が多い。むしろ巻き込まれない事を考えるべきです。

3.事件を起こした人物を特殊な存在として社会から切り離すのは差別思想と根幹が同じです。自分だけは健全でいたいという欲求から区別して距離をとる「ために」相手を攻撃するわけです。しかし社会がこの精神を産み出すに辺り何らかの関与があった場合はそれは矮小化されます。ムリヤリ決着を計るのは当人たちがひ弱だからです。
 そしてその「関与」を放置した場合、再発します。

 1.と3.についてことさら安易なのは出来事をすべて下流を叩いて決着しようとしている所です。下流は上流から流れてきた結果ではないでしょうか。遡る努力はしておらず、ゴミを土中に埋めて見えなくしただけという気が致します。

 犯人擁護の立場になりかねないので反論はやりにくいだろう、という空気を利用して言いたい放題なのであれば話者の都合で事件を利用しているだけでしょう。自分が大口を叩くいい機会と思っているだけかもしれません。
 扇情的な空気の中で過激な言葉も受け入れられるだろうと。ややもすると過激なアピールを好む人と見られています。ご本人が楽しいから役に溺れているだけかもしれません。(便乗する人もそうなのかも)

 最後はなんだか悪口みたいで申し訳ないですが、言葉を戦わせてご本人的な「勝ち」を拾っても自分の評価が下がって損するだけということも考えて頂きたいと思います。そんな所にムキになられても仕方ありません。

 正否の議論以前だと思うのです。

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