見出し画像

現実が表現の不自由展。表現の不自由展はそんなに悪い?

 性犯罪や残虐事件が起こると、かならず出てくるのがアニメやゲーム、漫画とからめたマスコミの犯人像です。ファンや制作側の人から「それは関係ない」「マスコミによるイメージの刷り込み」と批判が返るパターンです。
 しかし確かに現代の娯楽には残虐要素や性描写に踏み込んだものも多く、発想の類似点から二つを結びつけ、行為をエスカレートさせる要因になったのではないかという指摘にも妥当性があります。
 そこで両者の関係を否定するため「影響されて現実の行為に及ぶ人が特殊(おかしい)」という主張に落ち着くことが多いようです。一部の人を過激に刺激するかもしれないが、ほとんどの人は想像上の表現として捉えるので関係がない、と言うのです。
 表現の自由展が騒動化した理由は、ここに一つの回答があると思います。
 しかし一方で、残虐事件や性犯罪について、喩えほんの一部の人とは言え、いたずらに刺激してしまう表現に正当性があるのか、(恐らく売らんがために)無闇に過激な表現を用いることは妥当なのかという疑問も残ります。
 抗議が話題となりましたが一つは昭和天皇の写真を燃やしたという内容です。もう一つは慰安婦像。昭和天皇も慰安婦像も、象徴的な存在です。
 なお、この記事では作品そのものについては言及しません(見ていないので)。展示の詳細は他の方が美術的な視点からこちらのノートに記され反響を呼んでいますのでご一読下さい。
 https://note.mu/segawashin/n/nd000935e7c61

旧日本の帝国思想

 最初に昭和天皇について。
 今年は元号が代わり、天皇が交代するという年で、今の政府や、各方面の右派・ナショナリストが譲位を盛り上げ、天皇中心の国の在り方をアピールする絶好の機会となりました。
 ここですでにタイミングとして過激に捉えられたり、作品として純粋に見てもらえない空気はありました。
 今の日本に漂っているのは旧日本の帝国思想の復興という空気で、精神的な主張に留まるもので戦争をやりたいわけではない、という説明を伴って社会の様々な細部に渡りアナウンスされている状態だと思います。中韓はこの雰囲気に敏感に反応している形で、その中心的な存在である安倍総理に反感を募らせている状況です。
 旧日本の帝国思想は富国強兵というテーマに集約されます。現在はこれが大企業の増益、防衛装備の充実と拡張という政策に反映されています。
 富国強兵政策の中心的なより処として、国民の意識を統合するために、明治までほとんど庶民と関わりのなかった天皇家を持ち上げる事が考えられました。こうして見ると天皇崇拝は明治半ばに降って湧いたように始まった儀礼的慣習で、個人の信仰ではなく国の都合で始められたものでした。天皇家の行事にまつわれば時代を遡りますが、天皇制は歴史は浅く、ごく最近になって政治的に作られたもので、それ以前の伝統はありません。戦国時代の武将が朝廷を奉じて戦いの大義名分とした(朝廷を政治利用した)事と変わらない、というのが歴史的な見方です。
 (余談ですが、天皇制は当時アメリカと並ぶ強国だったロシアの帝政を参考にして作られています。なので右派の方が共産主義を仮想敵として目の敵にするのは色々な意味で間違っています。天皇制については直接的に制度輸入元への批判となってしまいます)

 恐らくこの流れを支えている方々は美術展だけでなく、何事に関しても天皇への不敬と感じた、あるいは指摘の可能な対象には分野子細を問わず抗議されると思いますが、実はこの数年、国や政府の方針で中止させられた美術展は何件かあります。そういった「おかみ」の意向を先取りして声を上げられた可能性もあるわけです。
 後から述べますが、事実、この「表現の不自由展」はそういった中止させられた展示のコレクションでした。それだけに思想の入らないのびのびとした展示会となる予定でしたが、様々な理由で展示を中止させられた作品のうち、今回は昭和天皇の写真を燃やしたとされる映像・慰安婦象が槍玉に取り上げられてしまった形です。昭和天皇を扱った展示が問題になったと思われる経緯は前段の通りとなります。
 作品については簡単に触れておきます。実物かどうかは分かりませんが、ネット上で昭和天皇の写真を焼いたとされる映像なるものは再生して見ることができます。こちらを見て涙を流し立ちすくまれた方もいらっしゃるとのことで、ある意味感動をされたという事だと思うのですが、その方にはお気の毒ですが、さほどにショッキングな映像とは思いませんでした。というのもいきなり顔に火をかけるような事はしておらず周りから丁寧に火を点けていたのでむしろ追悼するような空気がありました。乱暴に踏みにじられているワケではありません。

 表現手段の是非は各人の受け止め方ですが、はっきり書いてしまいますと、様々な記録や昭和天皇の戦争責任についての運動やデモ、経緯から決して昭和天皇が手放しで赦されていたワケではないのは分かります。むしろ戦争を主導する立場にありながら国体護持にこだわって終戦を引き延ばし、犠牲を増やした方でもあります。国外から見れば戦争犯罪人なのですが、日本にはこの「国体護持」という考え方が刷り込まれた人が多く、必至の工作で憲法で象徴と扱う事で免罪とする道が考えられました。これが問題だったために後々戦争責任を問われるハメになってしまったのです。ここで生じた歪みは次の通りです。
・ 戦争犯罪責任が最も重い人物の一人であるにも関わらず新たに地位を与えられて刑から逃れ庇護された
・ 新しい憲法の下でその責任は浄化されたが、憲法以前にも存在していた方なので、憲法以前の重大な責任が反故にされた形となった
・ 事実上、戦争責任が追及されない特赦を受けた
・ 国民の憤りが払拭されたワケではないが、国民は新しい時代に向けてこの妥協的解決を呑んだ
 ですので、受け止めの是非に立ち返りますと、多くの戦没遺族から見れば家族の命を奪った中心人物となってしまいます。彼らは品良く黙っているだけなので、そういった方々を刺激してしまえば一転、昭和天皇の戦争責任を問う議論を焚きつけてしまうだけなのです。昭和天皇の写真を焼くことをけしからん!とする人たちがいるのは分かりますが、逆に多くの戦没遺族が昭和天皇の戦争行為について納得しているわけではないのです。今さら言っても仕方ない、と公に怒りを表明したりはしないものの、戦中戦後の方と話す機会があれば「身内を殺された」というような愚痴めいたつぶやきを聞いたことが全くない人はいないのではないかと思います。冒頭のリンクを読んで頂いた方には分かると思いますが、むしろもっと直接的に昭和天皇の行いを問いただす作品が別にあったのですが、それは全く抗議の中に出て来ませんでした。写真を焼く、と伝える方がショッキングなので意図的に作品を選別したのだと思います。
 話を戻しますが、昭和天皇の写真を焼くことについては「けしからん!(不敬という言葉がありますが、これは侵略時代の法律の不敬罪に由来しますので帝国思想でない私は使いません)」と言う人もいますが、戦争に近い古い世代になるほど内心、焼かれるくらいで何だ(戦場に行かされて亡くなったり原爆を落とされた事に比べれば微々たる事なので)と思う人も現実に多いという事です。
 実際、日本人・国民の心を踏みにじるという言葉に対しては「勝手に日本人にくくるな」という意味の反論も出ていました。

 こうなってくると昭和天皇の写真を焼く行為の是非は価値観の違いであって、一方的に悪い事とは言えなくなってしまいます。ましてやこれは芸術上の仮想的な表現ですから、冷静に考えた場合、怒りにも現実味が乏しいと言えます。
 問題があるとしたら天皇は絶対なので侵すべからずといった思い込みなり、その思想から受ける心理的な圧力があるかないかでしょう。ただ、その圧力の出所は帝国思想であって、これを現代の憲法の「国民の象徴だから」と言い換えるとトーン・ダウンしてきます。
 批判の根本的な疑義の一つは思想の違いであること。言うなれば個人の判断により解答が異なります。
 根本的に的ハズレな二つめの疑義は昭和天皇は半世紀も前に象徴としての役割を終えていて現在象徴ではない事です。また、象徴であるためには国民の総意が必要ですが、前段のように昭和天皇については戦争責任という問題が未解決のままなので、人によって評価が変わるのは当たり前ですし、むしろその行いを振り返ると悪いイメージがあって当然の方だからです。
 きちんと裁かれて、天皇制が象徴天皇制として残るにせよ交代していれば、後々このような咎めを受けることもなかったし、米軍に頭を下げるような屈辱的な行為をせざるを得なくなる所まで追い詰められる事もなかったでしょう。そのような米軍の意志なり自身と自身を用いての国体護持の目的の下で発せざるを得なかった言葉の数々(原爆は仕方なかった、というような)がまた反感を呼んでしまいました。

 先程書きましたように天皇への侮辱は人の怨恨を買う行為であるとの圧力は帝国思想、帝国思想下の日本の同調圧力に端を発したものです。これを暗に匂わせるために激しい怒りや抗議といった「脅迫的」抗議が行われ、それがショッキングだったので、報道を聞いた人は思わず天皇を芸術の名の下に貶めた不埒な行為であるといったイメージに受け止めてしまった人が多かったのではないかと思います。知らず本能的に保身に走っていたのではないでしょうか。確かに広まったメッセージ通りであれば何段階も礼を失した表現ということになりますが、そうではない明確な表現意図を持った作品展示であった事は今現在分かるわけですし(展示を断られた作品が焼却処分された様子を再現したもの)、落ち着いて考えれば、対象は全ての天皇ではなく、戦争の中心にいた、ややもすると論議の的となる昭和天皇の存在を問う時に持ち上がるジレンマのようなものがある事も分かると思います。
 この脅迫状態を受け入れてしまうと、天皇への批判や不注意と見なせる扱いは全て一方的な糾弾を受ける社会、という環境を受け入れてしまうことになります。
 その糾弾の手段がかなり脅迫的であった事は問題かと思います。実際に逮捕者も出たワケですがそちらは問題にされず、脅迫FAXは事務局のでっち上げとデマ扱いまでされていました。ある意味警察も身内、という意識があったからかもしれません(事務局の被害届は受付けられなかったが県の被害届は受付けられたのでこの点も疑惑が向けられています。抗議側に荷担するような不審点が多いということです)。
 現実に日本の行った戦争行為について触れる時、昭和天皇の存在を避けて話をする事は不可能ですから、国として反省をするとか、戦争の悲劇を繰り返さない事が目的であれば、脅迫で封じ込めるというのは不自然さを露出させるだけとなります。


少女像を警戒する理由

 ただの少女像にこれだけの反応を引き出す脅威が眠っているのかと思いますが、個人差はあるものの日本社会が韓国の慰安婦像に敏感になっているということかと思います。昭和天皇と異なるのは、前者が思想的背景の違い(それ故、問題は日本人の中にあって国としての自省も要し複雑でした)による温度差なのに比べ、こちらの争点がかなり政治的である事です。
 昭和天皇が抗議として持ち出されたにも関わらず少女像の展示を中止するよう要請されるのですから、むしろ少女像が本題で政治的意図で昭和天皇を利用しているのではないかという疑惑も出て来ます。天皇の政治利用だとするとその方が失礼な上にまずい事をやっているという話になります。
 日本の戦争は天皇を利用したプロパガンダでしたから、二度と戦争を起こさないというのであれば天皇の政治利用は絶対にやってはいけないのです(象徴天皇とした意味が崩壊します)。こういった原則を簡単に破ってしまう人は開戦肯定の参戦論者でしょう。ともあれ、こうまで動機付けを強化してややこしい話にしてまで何をしたいのかそこまでする動機は何なのか不自然さを気にしてくれと言わないばかりになってしまっています。
 少女像への抗議にも、日本人・国民の心を踏みにじるという言葉に対し「勝手に日本人にくくるな」という意味の反論が出ていましたが、そういった方々は日本の侵略における犯罪行為に対し、誤魔化す事を潔しとせず謝罪の姿勢でいるべきだとする方々です。至極真っ当だと思います。
 一方で批判をする方たちの動機は政治的なだけに多岐に渡っていて、祖先がけだものであるかのような展示物などと慰安婦問題への情緒的な味付けはあるものの、概ね政府が韓国と外交上距離を置いて内省を促す(支援者は韓国が無礼なので制裁をしたとして溜飲を下げている)対応を取っているのに、国策に逆行する行為で、政府に非協力的で公的でない(故に税金の投入はおかしい)と言った批判に集約されるように思います。こうなってくると、これは現行政府への支持か不支持かという個人の思想の問題です。
 公的な問題・日本人の心という言葉で現行の政策に跪かせようとするのは無理筋で、全体主義(帝国思想)が発想の元にあることが分かります。

芸術としての少女像はアリなのか

 橋本氏が(日本だけでなく韓国の戦争における侵略行為についても)お互いの政治主張を述べるべきだったと言っているワケですが、なぜこんな話になってしまっているかというと、この平和の像と名付けられた少女像には慰安婦問題のデモの精神の具現として作られたとの解説があったためで、短い解説ながら敵地に乗り込んできたプロパガンダと捉えられてしまうのも分かります。この少女像の原点の意図を許容できない(人間的なスケールの問題で)人はいると思いますし、それも自然かと思います。今の日韓の関係を見るとむしろ許容すべきでないとも言えます(機会があれば別記事にしたく思います)。そういった方たちに芸術の名を語った政治的な道具と見られても仕方ないでしょう。展示を見に来て一方的に政治的課題を受け入れさせられるのはあまりいい気持ちがしない人はいると思いますので、私が作者であればそのような作品と解説は置かないと思います。閲覧者が日本人であると考えた場合、相手が理解を拒絶する方向に誘導しかねないからです。しかし、良い印象を持たなかったとしてもそれまでです。その表現が賢しいと感じて不快ならスルーして終わりでいいのではないかと思います。それ以上の攻撃や展示中止要請に至る行為についてははっきり行って理解不能です。仮にこれが係争国による攻撃だったとしてもその攻撃力は大したものではないからです。私であればあてつけ程度としか感じないでしょう。ホンキで怒るようなものではありません。反感を表明している人たちは過剰防衛に感じます。

 誤解があるかもしれませんが、芸術というのは評価しなければ終わりです。作品がつまらなければ見なければその作品は消滅したも同然です。ここは政治とは全く異なり、反論不要で消滅させられるのです。
 私の個人的な作品の評価は書きましたが、実際に作品を見る場合は細かく観察すると思うものの、意図については先程のように賢しいと感じる向きもありますので像の造詣にそういった意図が現れていたり、価値観の違いを超える努力がされていない場合はどうでも良い作品として評価しないと思います。私は私で不快を感じるのはこの作品の意図には「日本人はみな慰安婦問題について反省しようとしていない」と敵対的な視線があるからです。そのような決めつけが前提にあることが不快ですし、慰安婦問題は過去の謝罪という観点からその決めつけも含めて受け入れるべきとは思いますが、そこまでのおもんばかりを作品に対して行うともう芸術ではなく政治的な妥協した評価になってしまいます。表現という意味でも最低な状況ですし、平和の像という題にも馴染みません(平等に和すのなら理解の時点で敵対的視線の下に一方的断罪というのは表現的に逆行していると思います)。
 ですので、政治的な話は無関係としても、この作品には芸術の立ち位置から表現上の瑕疵がある可能性があり、そのために批判(過剰な反応であるとは言え)を受けたということであれば、作品自体が未熟であったという考え方もできます。見る者の理解を拒絶し断罪しているので、そこを乗り換える力があり、その上で理解を要求できる相手にしか伝わらない表現だからです。相当な自信家でないとこんな作品は出せません。
 もう一度念を押しますが、以上は作品の評価に関わる話として掘り下げたもので、政治的に問題視するとか脅迫するといった行為については全くのムダだと思います。
 ですが、好意的にこの作品を解釈した人も多かったようです。一重に少女像が穏当な表現であった事が好感を引き出したようですが、この作品の主題を書かれたままに受け止めると違った世界が見えてきます。
 日本では慰安婦像は韓国の活動家の小道具、日本軍の侵略行為の具現化としてあてつけやいやがらせに活用されているといった受け止め方が多く、報道もそのように見せています。慰安婦像を嫌に感じる人がいるのは、その像を前面に出して韓国の人が憎悪をぶつけてくるからでしょう。映像で見ると、被害者の像を晒して攻撃に使うという感覚には正直ついていけない気になる時もあります。しかし、作品の説明に書かれているように水曜デモ(日本大使館前で行われている慰安婦問題の解決を求めるデモ)の崇高な精神の記録として作られたものということであれば、慰安婦象は不満をぶつけるための小道具ではなく、この問題の解決を願う人々の拠り所となっているという解釈も出て来ます。


芸術としての少女像はアリなのか2

 表現についてはもう一つ、騒動の中で一転見逃せない衝撃が走りました。エヴァンゲリオン作画貞本氏の投稿です。引用します。


 キッタネー少女像。
 天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
 かの国のプロパガンダ風習
 まるパク!
 現代アートに求められる
 面白さ!美しさ!
 驚き!心地よさ!知的刺激性
 が皆無で低俗なウンザリしかないドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ

 こちらが大変な衝撃で受け止められましたが、多くは(海外含め)ファンや作品を評価していた一般の人からの失望の声でした。その他は韓国を嫌う右派からの擁護だったと思います。内容の正否についてはご本人が誤解されている所もあり、多々解説されていますので省略しますが、キッタネー少女像という言葉で始まる敵対的な言葉をぶつけられた事が非知性的として失望を買い、ここで書かれている芸術の定義は正しいのか、作品の評価としてどうなのかという話となりました。ここで終わればまだ良かったのですが次に出て来た内容がことさら過激でした。

 あなたが私に何を期待されてたのか知りませんが…

 例えばとびきり綺麗な慰安婦少女とライダイハン少女が向かい合って鍋で兵士のペニスを大量に煮て食ってる像とかであったなら不謹慎ながらも少しはコンセプチャルな刺激を感じられたかもしれません
 ↑
 真面目に考えました

 しかしながらここに貞本氏の芸術感がありますので見てみたいと思います。「真面目に考えました」と書かれていますのでできる範囲で掘り下げます。
 ライダイハン少女(戦時下で生まれた混血児)が出てくるのはすでにおかしいといくつもの指摘が出ていて、韓国の罪状を露出させるためだけに引っ張り出されたと受け止められています(このままではそう受け止められているという事です。慰安婦との対比に様々な不整合があり、また少女に限定される理由もないので韓国兵による性暴力事件とでも思ってらっしゃったのでしょう)。男性器を煮て食べる意図は分かりません(分からない事にしておきます)。男性器に憎しみがあれば火で炙ると思いますが、煮殺した上で食べるのだから栄養になる、ということなのでしょう。これが年老いた慰安婦でなく性処理に駆り出された現役の少女と言うことであれば、奴隷扱いの処遇を強要されていた被害者が楽しんでいたのだろうというメッセージになってしまうと思います。
(氏が肝心の意図を描ききっていない―――――それ自体が曖昧さに逃げていて表現として不完全なのですが… 表現上のこういった行為は「自信がない」と見なされます―――――のでその解釈の揺れは生じます。投稿時点で御本人が意図した内容で閲覧者の持つ歴史的事実に適合しなければならない事と何よりも本人が言うように不謹慎でなくてはならないのです)
 慰安婦少女に限って最大限好意的に解釈すると、貞本氏は慰安婦はプロの娼婦だったという右派の誤った歴史観を疑いなく呑み込んでしまっているのではないかと思います。当然これは一般の閲覧者に通じる普遍的な前提にはならず、プロが真面目に考えるレベルには達しませんので、テーマ構想の段階で失敗しています。(もっとも分かりやすい記号化である服装に言及がないので発想時点で単に美少女に男性器を食べさせるという画的なギャップを狙ったものでしょう)

 美しいものが現代アートと言い切ってしまったのでどのみち描かれる人物への外見的魅力は外せなくなっています。ペニスは食べられて浄化されてしまっているので、性処理は女性である被害者側の受け止め方にされてしまい、兵士の残虐性は描かれず終い、これは映像でよくあるパターンで濡れ場などで襲われる女性だけを描き男性の醜さは描かずに終わるやり方です。男性の性暴力を正当化した上に美しい女性が苦悶する残虐な性を娯楽にする男性社会の映像的伝統みたいなものですが、無意識にそこにハマって突き抜けた表現を考えていないのは陳腐すぎると思います。
 最終的に作品が失敗しているのは伝わる範囲でこれが「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」の中の驚き!しかない事です。人物を綺麗に描いたから美しさ!があり、キッタネー少女像の上を行った、とは到底受け止められません。
 アニメ・エヴァンゲリオンには戦闘に伴う残虐シーンも多々あります。「性犯罪や残虐事件が起こると、かならず出てくるのがアニメやゲーム」
 冒頭にこう書きましたが、まさにそういった指摘にうってつけのカットがあるため、制作側には説得力のある作品作りが求められているハズです。
 これらのシーンが、もし貞本氏の感性が加わって作られたものであるとすればエヴァンゲリオンという作品の表現について見直さなければなりません。貞本氏の投稿を見た上でアニメを見た時に、以前と同じような気持ちで見ることができるでしょうか。戦争行為に酔い歪んだ観念で捉えた性的残虐性ありきの描き方をしているとしたら。
 業界の方々がこの件に直接触れる声は今時点では少ないようですが、アニメは多くのスタッフが関わるので貞本氏一人の感性で作られてはいないというような弁護がありました。しかし、これは逆だと思います。
 映像の世界では関係者が多いため、一人の軽率な行為が全体に迷惑をかけます。費用も巨額で他のスタッフも人生を賭ける姿勢で取り組んでいる人がいますが、それらの積み上げられた努力が一瞬で水泡に帰すワケですから、スタッフの条件は人間としての信頼性です。これを理解しておらず途中で消える人も多いのです。そのため自己主張がしたいのであれば大御所になってからにせよ、などと諭される世界です。貞本氏が大御所であるかは微妙ですが、作品の感想は前段の通りです。内容的に画で持ち上げられる世界であり、露出の多さが知名度に貢献している事は計算に入れて考える必要はあるかと思います。


最後に

 立場的にこの展示を受け入れられないという思想の方がいるのは分かりますし、そのように表明したり批評することは自由です。が、実力行使に出るのはやり過ぎ、敏感過ぎ、意図的、介入し過ぎです。
 他の美術館で展示ができなかった作品を集めた空間を作る、という事は公的な機会でなければ実現できなかったでしょう。また、その展示の在り方自体が公的です。剥奪された「知る権利」をしがらみから解き放ち回復させる場を作っていたからです。
 文化というのは支配と相容れない考えや気持ちを表現するためにあります。為政者を皮肉る風刺を監視するような空気は文化を消滅させるでしょう。抗議は文化をダメにするだけです。そのため、文化に政治的な介入や脅迫があってはならないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?