▽R05-10-28 病むに病まれず
▽「ロックは淑女の嗜みでして」という漫画を最新3巻まで読んだ。
お嬢様学校に通うお嬢様がロックをやる、というお話の軸自体は今やさほど突飛なものではない、それどころか「意外性」の出し方としてこれほど王道なプロットも中々ない気がするが、それだけにしっかりと中身で魅せつけられる良い作品だった。
小賢しいオタクであれば、作品のあらすじを読んだ時点でストーリーの方向性がおおよそ想像できるかもしれない。その想像はおそらく大枠として間違っていないのだが、実際に読んで目の当たりにする「熱量」はきっと想像の5倍、10倍上を行ってくるだろう。作画にしろ演出にしろ展開にしろセリフ回しにしろとにかく熱く、真夏の砂浜に猛烈な潮風が吹き抜けるような読み心地で最高に気持ちがいい。他作品で喩えるのはあまり良くないかもしれないが、「ウマ娘 シンデレラグレイ」と似たノリを感じた。胸焼けしそうなカロリーしてるくせにページをめくる手は一向に止まらないんだから、これはもうまさしくロックというほかない。
あと主人公のお嬢様、庶民の出とかそういう問題じゃなくガラ悪すぎて面白いんだよな。たまたま淑女の皮を被る羽目になってしまっただけで、精神構造はほとんど東方仗助だ。次はどんなふてぇ野郎にガンつけて喧嘩売るのか、今後の展開から目が離せない。
▽チュートリアルステージみたいな点字ブロック。
▽アツい作品に出てくるアツい展開、アツい人間に触れたとき、「アツいなあ」と感じるとともに「病んでいるなあ」とも感じる。
特定の事柄に偏執的なこだわりを見せることを「病的だ」と言うように、熱中することは病むことでもある。こだわることが病理だとみなされるということは、逆に考えれば、「正常な」人間とはこだわらない人間のことなのだ。大人として相応しい程度の判断能力・自律能力を持ちつつ、でも他者との関係では「特にこだわりませんので皆さんにお任せしますよ」といつでも譲歩できる余裕を持っておく。社会の要請する正常性とはそういう態度のことだ。自動車のハンドルと同じで、的確な振舞いを実現するためには実は「遊び」が大事になってくる。
よく人間を「社会の歯車」と形容することがあるが、歯車が噛み合って上手く回転するためにも一定のスキマが必要だ。ガッチリと深く噛み合って密着するほどになった二つの歯車は、それゆえ滑らかに社会を回す能力を失ってしまう。こだわりとは歯車と歯車の間にできた鈍い錆のようなもので、社会が求める人材とはまさに、こういった錆の芽に絶え間なく油を差して自己をメンテナンスできる人間のことなのだろう。
漫画やアニメ、その他の創作に登場する人物は、その病理性ゆえに社会から浮いているし、その病理性ゆえにアツい展開を演じる。病んでいるからこそ恋するし、病んでいるからこそ悪を看過しないし、病んでいるからこそ世界を救うのだ。
物語性とはほとんど病理性から生じる。いや、これは言い方が逆か。局所的な物語性を徹底して排除したのが社会というマクロな機構で、その排除された物語性のことを我々「社会人」は病理とみなしてしまうのだ。
それでもなお、「社会的に」成功した人間というのは魅力的なナラティブを有しているものである。物語を持たない圧倒的多数のレギュラーが基盤を支え、ごく少数のイレギュラーがそこに発展性を与える、という大きな構造それ自体も、ある意味で「遊び」の原則を体現する強靭さなのかもしれない。
▽自分は病んでいないな、と感じることがよくある。
百人見れば百人が「つまらない」と思うであろう人生を歩んできて、それでもなおぼくは今の生活に何の不満も持っていない。こんな生活が死ぬまで続けばいいなと思うし、仮に続かなかったら、きっとぼくはその程度の人間だったのだと諦めるだろうと思う。病的に求める何かもなければ、病的に現状に固執したいわけでもない。浮かされる熱を持たない人生が、どんな夢より心地よいのだ。
ぼくは自分の病んでなさが好きだけれど、病んでないゆえに何も為せないのだろうな、と思う。ぼくが主人公の物語を書いたら、きっと見開き1ページで完結するだろう。
……あるいは、自分もどこか知らないところで病んでいるのかもしれない。いや、おそらく病んでいるのだろうけれど、その病み方を自覚できないからこそ何も為せないのだ。自らの病理を社会に還元できる存在というのは、ある意味二重で病んでいるのかもしれないな。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、よい表現には狂気的に統御された狂気がある。
▽葬送のフリーレン面白いね……
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