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マリンワールド海の中道にいたラッコたち

マリンワールドは長崎水族館や大分マリーンパレスから来たラッコ達の繁殖によって現在までラッコ飼育が続ふいています。そんなマリンワールドには以前、繁殖が叶わなかったもののラッコ飼育を支えた先住のラッコ達がいました。


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1990年出版オホーツク水族館のラッコのラリーたちの飼育の記録を書いた書籍「がんばれ!赤ちゃんラッコのラリー」より(オホーツク水族館は2002年に閉館)、

1989年4月、オホーツク水族館から海の中道海浜公園へラッコのラッキーが里子に出されたとの記述があります。直接的な記述はマリンワールド側ではありませんでしたが、朝日新聞1990年2月25日の記事で「昨年四月にやってきた二歳児のラッキー(雄)」と記述されており書籍の記録とも合致しています。マリンワールドのオープンした1989年4月に合わせて滑り込みでやってきたようです。

西日本新聞1990年2月17日の記事で「同館には二歳児のラッコ一頭(雄)がいるが、」と書かれており、マリンワールド海の中道最初のラッコはオホーツク水族館のラッコのラッキーだったようです。

以前「がんばれ!赤ちゃんラッコのラリー」を読んだあとに、マリンワールドでオホーツク水族館からラッコが来た記録がないか尋ねたことがあったのですが、後述するそのあとにシアトルの水族館からやってきたラッコ達の記録とごっちゃになっているようでした。

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同じく朝日新聞1990年2月25日の記事にはシアトルの水族館からラッコが4頭(雄1頭雌3頭)やってきたことも書かれています。本来は前年1989年のタンカー座礁のオイル流失事故でラッコが大量死したため保護で捕獲禁止になっていてラッコの輸出は禁止されていたのですが、その折に救助された母親が出産しその子供がシアトルの水族館で育てられ、事故前に輸入を申請していたマリンワールドが特別にその子たちを輸入することが認められたんだそうです。

そして西日本新聞1990年4月20日の記事で、そのラッコ達の名付け親の表彰式のことが紹介されています。

4月18日、雄に「ゲン」雌に「アスカ」と名付けられたとのこと。残りの2頭についての記載はなかったので、死んでしまったものと思われます。(※1993年のにしてつニュースに雌の「キキ」の名前あり 2021年6月10日追記)ゲンは玄界灘、アスカはアラスカにちなんだもの。

ゲンの死亡時期についてはわかりませんが、少なくとも1999年にナダと同居していたことが「どうぶつのくに」で連載を書かれているマリンワールドのラッコ飼育担当である土井さんのコラムからわかります。アスカは2000年11月に三津シーパラダイスにお嫁入し(現地ではキャンディーと改名)、2005年1月に死亡したことが訪問者の記事でわかっています。

先住ラッコのゲン

三津シーパラダイスに移動したアスカ(キャンディー)


ゲンという名前、のちに大分マリーンパレスからやってきたラッコが「トントン」から「カイ」と改名され、智佐の子供が「ナダ」と名付けられているので1999年の時点で「ゲンカイナダ」の名前が揃っていたようです。

そんなわけで、もう1頭生まれたマリンも含めて2000年の時点ではラッコが6頭いるという大所帯だったとか!

マリンワールド公式HPではマリンワールド30周年記念誌がコンテンツとして公開されていますが、アスカとゲンとラッキーの来歴については書かれていませんでした。記録として残っていないようです。

マリンワールド海の中道のラッコたち

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ここまでマリンワールド海の中道の「マナ」の親戚と先住ラッコについて記事を書いてきましたが、参照元がほとんど新聞で著作権の関係で積極的引用ができなかったので提示できる根拠が薄いです。そこで、順次参照した新聞記事を最低限の範囲で新聞社から二次利用の申請をして記事として紹介していこうと思います。

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