![ラッコ親子](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20291421/rectangle_large_type_2_4ee86c26210ed42cb6654d58146eb5dd.jpg?width=1200)
長崎水族館のラッコたち
マリンワールド海の中道、「マナ」の祖母とその母親のいた長崎水族館のラッコたちの紹介です。
長崎水族館は今では閉館し、その後継施設としてペンギンの飼育に特化した長崎ペンギン水族館があります。その長崎ペンギン水族館で、去年からペンギン飼育60周年記念ということで、これまでの長崎ペンギン水族館から長崎水族館時代までの出来事の振り返り展示を平成31年3月から令和2年3月まで行っています。
その中の展示にラッコ飼育時の写真やパンフレットやグッズなどがあります。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19451728/picture_pc_d2a9645b302b41673c9299802d2863a9.jpg?width=1200)
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19451736/picture_pc_8c03f5123d9272efb8e426ec13a7eb66.jpg?width=1200)
展示されているラッコの写真の中では比較的鮮明な写真
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19451752/picture_pc_07e7d11bf95b46467246e2e30f1fba62.jpg?width=1200)
長崎水族館のラッコ家族
長崎水族館のラッコ担当だった、長崎ペンギン水族館の現館長に当時飼育していたラッコのことを尋ねてみましたが20年以上も前のことでほとんど覚えておられないとのこと。当時つけていた飼育記録も長崎ペンギン水族館へ引っ越しするときに破棄してしまったそうです。
分からないことが多すぎましたので、地元の福岡県立図書館の新聞検索データベースで長崎のラッコの記事を探したり、長崎県立図書館で司書さんの力も借りたりしました。
詳しくは長崎バイオパークの記事で書きますが、当時の獣医さんだった方から取り寄せていただいた長崎バイオパークのラッコリストに長崎水族館出身のラッコが三頭いました。
新聞記事とラッコリストから作った系図
![ラッコ1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20290207/picture_pc_d6bbfaac35013346577b21c34d81900a.png)
「智佐」は長崎水族館でこの表のラッコ以外にも子供を産んでいるのですが、これ以上はわかりませんでした。Twitterで当時の長崎水族館の利用者から話を伺うと父の「長太」は、それまでのパートナーだった「崎」をしり目に智佐に近づこうとお互いを隔てていた仕切りをガリガリやっていたそうです。地元で「不倫にはまった雄ラッコ」として話題になっていたんだとか。
ラッコマニアの方に話を聞くと、ラッコの恋愛は雄雌自由なので結構簡単に相手を変えるんだそうです。
![](https://assets.st-note.com/img/1678325775008-HxnE1GPiWu.png?width=1200)
※血統台帳から写して頂いた長崎バイオパークのラッコリスト・
長崎水族館刊行誌「水の中のともだち」・西日本新聞・長崎新聞を参照
智佐の名前の由来
智佐ちゃんで~す
長崎水族館で6月3日に生まれたラッコの赤ちゃんの命名式が7月12日ラッコ館でありました。本島等市長が名づけ親となり、父親「長太」母親「崎」の頭文字を取って、「智佐」と命名されました。
昭和62年8月号No.439 p8
水の中のともだち No.1~No.15
ラッコ関連の記事から抜粋
1987年No.9 「北海の人気者 ラッコが仲間入り」
体温を保つためにラッコは大食感で、1日の食事量は体重の20~25%です。食事は5回に分け、イカ、ウチムラサキガイ、魚類(タラ)を主にエビ、カニなど、栄養的にもバランスのとれた餌を与えるように心がけています。
ラッコは水面にあお向けに浮き、胸部にのせた貝に両方の前あしで握った貝をたたきつけて、上手に貝割りをします。
まだ名前は付けていませんので、No.1(オス5歳)、No.2(メス4~5歳)、No.3(メス2~3歳)と仮に読んでいます。
No.1は一番大きいのに臆病で、欲張りです。
No.2はたいへんおとなしくて優しく、ほかのラッコから貝をよく横取りされます。一番小さいNo.3は好奇心が強くて、何にでも興味を持ち、とてもおちゃめです。プールぎわで係員と握手をしたり、陸部では後あしと尾で立ちながら餌をとることもできますが、まだ貝割りはできません。
※No.1…長太(体重30.8㎏)No.2…崎(体重23.0㎏)No.3…日見(19.7㎏)
1988年No.10「2年連続 ラッコの赤ちゃんが誕生」
1991年No.12 「ラッコの赤ちゃん誕生」
1994年No.14 「いたずら好きの・・・ラッコ」
プール内のガラス面に防水用としていたシリコン。それをラッコがいたずらしないようにステンレス板でカバーしていますが、とうとうそのカバーをラッコが取り外してしまいました。そのままではシリコンを剥がして漏水の原因になります。早速、修理工事に取りかかりました。プールの水を引いてからの工事なので、工事後に新しい海水を入れました。飼育水温が13℃から17℃に上がりましたが、心配されたラッコにも何事もなく無事に終了しました。
これからもラッコのいたずらが続くと思いますが、いたずらもほどほどにしてもらいたいものです。
令和5年2月23日、リニューアルしてから初めて訪問する長崎県立図書館(郷土資料センター)で長崎水族館のラッコについて資料探しをしました。ペンギン水族館前館長から「智佐の名前は市長が命名した」と伺っていたので広報誌に載ってるかもと思いました。
その時に司書の方から長崎水族館の刊行誌「水の中のともだち」を紹介されました。
長崎水族館はよその園館から別の血統のラッコを入れられず、智佐は父親と関係を持っていました。ラッコはストレスに弱く、移送のストレスで死んでしまうことも多かったのでなかなかよそからラッコを連れてこられなかったんだそうです。大分マリーンパレスでも同じ状況に陥っていたみたいです。
そんな時に長崎水族館の閉館となり、移送先のマリンワールド海の中道で大分マリーンパレス出身の「カイ」と早速意気投合して、「マナ」の両親となる「ナダ」と「マリン」を出産しました。
長崎ペンギン水族館の現館長は、移送後にマリンワールド海の中道で最初にラッコが生まれた報告を聞いて以降は向こうでのラッコのことは知らなかったみたいです。マリンワールド海の中道の方でも長崎水族館の「マナ」の親戚のことまでは知らないようでした。
長崎水族館側ではラッコの飼育はもうしていないので関係ないと言ってしまえばそれまでなのですが、こうして歴史が途絶してしまうのは寂しいことのように感じます。いつか長崎水族館側とマリンワールド海の中道側の双方に「マナ」の親戚の長崎での活躍が知れ渡るといいなと願って、ラッコマニアの方に集めた資料を提供して、こうしてNoteの記事にもしています。
長崎水族館と長崎バイオパークのラッコたちの活躍は、新聞記事の写真を載せられれば一番わかりやすくお伝えできるのですが、著作権のことがありますので残念ながら現時点では載せられません。ですが、いつか近いうちに新聞社に使用料を払って、こちらで写真を紹介するつもりです。
次は長崎バイオパークのラッコたちの紹介です
令和5年3月9日・・・ラッコの智佐の名前の由来、「水の中のともだち」の情報を追加
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